「アカリ?」
チハヤの声がする。すぐ近くだ。チハヤが、あたしの返事を待っていた。
イエスといえばいい。
そうすれば、チハヤとあたしは一緒にいることが出来る。
でも、声が出なかった。言の葉を紡ぐことができなかった。
ぎゅっと、チハヤに抱きしめられる。温かくて、安心できる彼の体温がすぐ近くにある。
この熱を離したくはなかった。チハヤから離れたくなかった。
でも、あたしは。
「チハヤ。・・・あたし、島に残る。」
すっと、出てきた言葉に一瞬自分でも驚いた。
けれど、口に出して言ってしまえば、それが本心だったのだということに気づいて、少しすっきりとした気分になった。
「・・・え?」
驚いたというよりは、すこし戸惑った声だった。
チハヤのそんな声を聞くと、心の奥の方がちくんと痛くなる。
でも、気持ちは変わらない。
「ごめん、チハヤ。でも、牧場を続けたいの。今は、島を離れたくない。」
「・・・・・・・・。」
「でも、手紙書くから。電話もする。チハヤへの気持ちは、変わらないよ。」
すっと、後ろでずっと伝わってきた彼の体温が離れた。
腰に置かれていた手が離れる。ひゅっと、安心さが離れて寂しさがあたしの中に募った。
あたしは、少し気まずいものを感じながらも、彼の行動が気になって、後ろを振り向いた。
チハヤと向かい合う形になった。
「アカリも、僕を一人にするんだね。」
彼の表情は、無感動に近かった。
ぽつりと呟かれた言葉が、あたしの耳に沁み込んでくる。すーすーと、耳が震えた。
「・・・チ、ハヤ?」
吸い込まれる。
今、あたしたちの瞳が一つになったんじゃないかって、錯覚に一瞬陥った。
瞳が揺れる。
それはあたしの瞳だったのか、それともチハヤの瞳だったのか分からなかった。
ただ、こんなに冷たいチハヤの声を聞いたことがなくて、あたしの耳が怯えて震えだした。
「一緒にいれないんじゃ、意味ないよ。そんなの。」
チハヤの瞳がふっと、伏せた。
睫が、彼の頬に影を落とした。
「え・・・?」
「別れよ。」
チハヤの口から出てきた言葉は、ぽおんと空気にのってあたしの耳に届いた。
一瞬、なんて言われたのか分からなかった。
いや、分かっていたのだけれど、それを理解することを頭が拒否していた。
信じられなくて、チハヤの顔をまじまじと見つめた。
さっきまでの温かな空間が嘘みたいだ。
目の前にいるのは、本当に今まで一緒にいたチハヤなのだろうか。
彼の表情や雰囲気の様変わりに圧倒されて、あたしはただぱちぱちと瞬きをして、彼を見つめていた。
「なに、それ。」
かろうじて、声が出せた。
掠れて、やっと言葉になっているくらい小さな声で、自分でも情けないと思った。
「今までのあたしたちって、なんだったの・・・?」
「そういうの、聞きたくないよ。」
冷たく跳ね返ってきた答えを、あたしはどう受け止めればいいのか分からなかった。
つきんと、胸に刺さるような痛みが、じわじわと全身に侵食していく。
あんなに触れ合ったのに。
あんなに手と手を重ねて、耳や首、指や唇に触れていたのに。
チハヤとあたしの皮膚が触れ合うごとに、
あたしはあんなにも幸せで、温かくて、どうしようもないくらい安心することができたのに。
本当に、あたしたちってなんだったの?
頭の中がぐちゃぐちゃになっていて、何から考えればいいのか分からなかった。
ただ、あたしは、チハヤの温かで居心地のいい空間の中に浸っているだけでよかったのだ。
それ以上のことはなにもいらなかったのに。
チハヤにとって、一体あたしってなんだったの?
ぐるぐると頭の中で、意味不明だという言葉が回っている。
チハヤのことが分からなかった。
こんなにも、簡単にあたしを突き放そうとしているチハヤのことが全然分からなかった。
「チハヤ。」
冷たい眼差しだった。
いつも宝石のように輝いていたチハヤの葡萄色の瞳が、ただのガラス玉のように感じられた。
まるで、殻に閉じこもってしまったカタツムリだ。
聞かないし、動かない。
チハヤは、あたしのすべてを拒絶するかのように、ただ冷たい瞳をこちらに向けていた。
けれども、チハヤの瞳の中に、きっとあたしは映っていないのだ。
「・・・意味ないとか、そういう問題じゃないでしょ?」
「じゃあ、なんだっていうんだい?」
チハヤの声は、無感動で、固かった。
いつもの柔らかな声とは違って、彼の声はあたしの耳にキーンと静かに響いた。
あたしは、冷たい水が胸を通り過ぎたような気持ちになった。
底なし沼に浸かったみたいだ。どこまでも沈んで、二度と浮かんでこれないような。
こんな最低な気分になるなんて。
チハヤへの想いは、どこまであたしを振り回すんだろう。
「だって・・・。」
「アカリは、僕と一緒にいられないんだろう?じゃあ、付き合ってる意味なんてないよ。」
「・・・なんで?チハヤにとって、付き合うってなんなの?」
「・・・・・・。」
「答えてよ。」
「もう、話すことないから。」
冷たい声。すべてを拒絶する声。
何も届いてないよ、チハヤ。
何を話してくれたの?あたしに何を与えてくれたの?
こんな冷たい言葉なんて、冷たい眼差しなんてほしくなかったのに。どうして、嘘だよって言ってくれないのだろう?
ごめん、冗談が過ぎたねって笑ってほしい。
頭に手を置いて、いつもの柔らかな口調で謝って欲しかった。
どうして、口を閉ざしているの?どうして何も言わないの?
胸のぽっかりと穴が空いて、そこからすぅーすぅーと風が通り過ぎていっているかのように、虚しくて空っぽで、何も感じられなかった。
瞳は乾ききっていた。
泣くことさえ、チハヤはあたしの感情から奪ったんのだ。それくらい、あたしはチハヤに執着していたのだ。
チハヤが殻にこもるなら、あたしだって自分の身を守るために殻にこもるしかなかった。
「チハヤ。」
小さく、そっと呼んだ。きっと、彼には届いていない。
あたしのために呼んだのだ。
あんなに愛しいと思っていた、彼の名前。たった三文字の文字。
空気に触れても温かく、柔らかくあたしを包みこんでいた彼の名前を紡いでも、今はただの三文字の言葉としか思えなかった。
もう、何も感じられなかった。
自分でも驚くほど、何も感じられなかった。
チハヤがあたしを突き放した今、あたしはもう、彼に何も求めなかった。
それはひどく、あたしの心を冷たくさせた。
ぱさぱさに乾ききってしまった野菜みたいだ。変なたとえだけれど、本当にそんな心境だった。
もう必要ない。チハヤへの想いも、チハヤからの想いを受け止める場所も、もうチハヤから必要されてなかった。
必要とされないから、ゴミ箱行き。
本当に、新鮮味を失った野菜みたいでしょ?
「・・・こんなんじゃ、どっちみち駄目になってたね。」
自分の声が、ひどく遠くに感じられた。
ひとつのお芝居を観てるみたいだ。
これは夢だろうか?だったら今すぐ覚めて欲しいのに、はっきりと頭が現実だと叫んでいる。
チハヤの顔を見た。
男の人にしては白い肌。すらっとした指。くしゃくしゃの明るい髪の毛。葡萄色の瞳。完璧な弧を描く睫。
すべてが優しく、あたしを受け入れてくれていた。あたしを求めてくれていた。
けれど、今チハヤを見つめても、返ってくるのは無感動な眼差しと、ただあたしを虚しくさせる空気だけだった。
それを感じた時、本当にあたしたちの関係は、キレイさっぱりと終わってしまったのだと確信した。
「バイバイ。」
どっちが言ったのか分からなかった。でも、二人とも同じ気持ちになっていた、と思った。
チハヤが、部屋を出て行く姿を、あたしは最後まで見なかった。見る必要なんてなかった。
彼の姿を目に映しても、もう何も感じられなかったから。
パタンと、ドアが閉まる音がする。
心のどこかのドアも閉まってしまったんじゃないだろうか。
彼がいなくなった空間の中で、あたしはただぼんやりとチハヤが出て行ったドアを眺めていた。
(ずっと、触れていたはずだった彼の熱を、もうおぼろげにしか思い出せない自分がいた。)
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