チハヤが、家を訪れたのは夕方頃だった。
その日一日を、作物の収穫と出荷に追われていたあたしはひどく疲れていた。
久しぶりに緑がなくなった畑を、窓から眺めていると、チハヤがミルクティーを煎れてくれた。
「ご飯は、採れたての野菜で作るから。何がいい?」
テーブルにカップを置いてから、チハヤが尋ねた。ふわりと、優しく手をさすってくれた。
手が重なっている場所が温かくて、あたしは安らいだ気分になれた。
あたしは、チハヤの方を向くと、疲れて重たくなった口を開いて、なんでもいいと言った。
「分かった。ちょっと待ってて。」
チハヤが、重なった手を離そうとしたのをぎゅっと握って、あたしは拒んだ。
今、彼のぬくもりを離したくはなかった。
「アカリ?」
不思議そうに、チハヤがあたしを見た。
「ご飯の前にね、昨日の言ってた話を聞きたいの。」
「食べてからにしよう?」
あたしは、首を振った。もう待てなかったから。
チハヤは、ちいさく溜息にもならないほどの空気を吐き出した。
それでも、あたしはそのままチハヤを見つめていた。
「・・分かった。」
そう言うと、彼はカーペットの上に腰を下ろした。
「アカリ、ここに座って?」
チハヤが、自分の足の間を指差した。
あたしは素直に、椅子から立ち上がって、彼の傍にいった。
ぴたっと、お互いが一つになったみたいに、チハヤは後ろから隙間なくあたしを抱きしめてきた。
ぎゅうっとされる。後ろから伝わってくるチハヤの存在が、あたしにはたまらなく愛おしい。
密着した所がとても暖かくて、後ろから抱きしめられる安心感に、
あたしは抱いていた不安を一瞬忘れてうっとりとしてしまった。
チハヤは、なにか打ち明けたり大事な話をするときは、かならずあたしを抱きしめた。
話が大きければ大きいほど、彼はあたしにくっついた。
だから、今日の話はチハヤにとってか、あたしにとってか、それとも両方にとって大事な話なのだ。
それを分かっているのに、どうしてもチハヤの温かさに溺れて、頭が半分くらい眠ってしまう自分がいた。
やっぱり、症状はかなり深刻らしい。
「どうしようか、本当に迷ったんだけど。」
「うん。」
「あのね。」
チハヤが紡ぐ、一音一音を残さず耳に納めようとあたしは努力した。
すぐ近くでささやかれているのに、こういうときのチハヤの声は、
透明なビンの中から聞こえてくるみたいに頼り気がなくてふわふわとしているから。
あたしは、チハヤの声を妨げないように、呼吸を抑えた。
「島を離れることにしたんだ。」
ぽおんと、放たれた言葉は、緩やかにあたしの耳に届いた。
一見柔らかな彼の声に、溺れそうになったけれど、その言葉の意味を理解すると、ぎょっとしてあたしは数回瞬きをした。
驚いてチハヤから身体を離して彼の顔をよく見ようとした。
けれど、チハヤはぎゅうとあたしの腰に回している腕の力を強めて、あたしが動くことを許さなかった。
「・・・どうして?」
ちゃんと声が出せているだろうか。
あたしの声が、一体どんな声を出したのか分からなかった。さっきのショックで耳がショートしちゃったんだ。
「ユバ先生の友達が経営しているお店の手伝いを頼まれてね。色んな先生から教わるのはいいことだって。」
あたしは耳を塞ごうとした。ううん、取り除いてほしかった。
今、一番あたしに必要のないものだ。邪魔にすら思う。
けれど、チハヤに覆われるようにして抱きしめられているあたしは、取り除くことはおろか塞ぐことさえ出来なかった。
せめてチハヤの瞳を見たかった。彼だけが持つ、瞳を見たかった。透き通った睫が震えている姿を確かめたかった。
でも、それもできない。ぎゅうぎゅうと押し付けるように、あたしを圧迫してくるチハヤはずっと俯いたままだ。
「そうじゃなくて、・・・チハヤ。」
「出発は一週間後なんだ。」
いつも優しく柔らかな声でだと思っていたチハヤの声が、その時は冷たく、突き放されたように聞こえた。
あたしの耳が聞き間違えた空言だったのだろうか。
もしかしたら、あたしのおもちゃのように拙い耳は、チハヤの言葉を上手く拾えていなかったのかもしれない。
だから、今のチハヤの言葉もきっと上手く受け入れていないのだ。
あたしの中に、あのなんともいえない浮遊感が漂い始めた。
シュー生地の上に座っているような感覚だ。ふわふわとしていて、掴めない。
チハヤといる時は、全くこんな気分にならなかったのに。
チハヤの方を見ようとした。あたしの顔を見て欲しかった。
すぐそばで、チハヤの髪の毛があたしの首に触れている。少しだけ首を回そうとすると、チハヤがゆっくりと顔をあげた。
至近距離の中で、あたしは彼の瞳を見つめた。
いつもは明るい紫色なのに、小さく揺れる彼の瞳は明かりの反射のせいか、黒に近い色を作り出していた。
チハヤが、小さく笑った。
今にも泣いてしまいそうな笑顔に見えて、あたしはたまらなくなって、チハヤの額に自分の額をくっつけた。
髪と髪が触れ合う。それとほぼ同時に、チハヤがあたしにキスをした。
キスをするのは、久しぶりだった。
ゆっくりと、触れ合ってからお互い唇を離した。
チハヤの整った口が、何か言おうとしている。
あたしは、チハヤの綺麗な睫が一回瞬きをする姿を見つめながら、その時を待っていた。
「アカリも、一緒に来てくれる?」
言い終わると、チハヤはあたしの首のすぐ横に、もう一度額をうずめた。
来てくれたら、嬉しい。と、あたしの首の隣で彼は付け足した。
ちょっとくぐもった声。でも、ちゃんとあたしの耳に届いている。響いて、わんわんと鳴っているくらい。
あたしは、返事をすることも出来ず、ただ、チハヤの体温を感じていた。
なんとなく、言われると思っていた。嬉しいと、素直に喜べる。
けれどもう一度、彼の温かさに溺れたかった。これは、夢なんじゃないかと思いたかった。
あたしは、チハヤと一緒に島を出て、どうするんだろうか。
紗の向こう側を見ているみたいだった。想像することさえ難しかった。
牧場は?生活は?あたしとチハヤの関係は?
疑問符ばかりが頭に浮かび上がってくる。
あたしにとって。チハヤにとって。お互いって、一体なんだろう。
好きだから手を繋いだ。愛しいから、抱きしめた。
それだけで十分だった。でも、どこかで駄目だと言う声が聞こえてくる。
どうして駄目なのだろう?何が駄目なのだろう?
疑問符が頭の中に浮かぶけれど、答えはどこにも見つからなかった。あたし自身、答えが出てくることを怖がっていた。
だって、もしもその答えが正統な理由だったら、あたしはチハヤと一緒にいれなくなるんでしょ?
「アカリ。」
チハヤがあたしの名前を呼ぶ。
たった三文字の言葉でさえ、愛しいと思う。チハヤが紡いでいるからだ。
チハヤの声を拾うとき、あたしの耳は少しだけ大きくなっている気さえするのだから。
あたしは、チハヤに応えずに目を閉じた。
ただ、チハヤの声と体温だけを受け止めていたかった。
(このままがいいと思うあたしは、きっとワガママだね。)
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