キルシュ亭に行くと決めた日の朝は、ひどく気分が悪い目覚めだった。

どんよりとした、なにか気味が悪い夢を見たせいかもしれない。

何か怪物に追われたり、誰かが死んでしまうような夢ではなかったのだけれど、

ただ、真っ暗などろりとしたものが、上からいくつも降ってきて、私の頭や身体にべっとりとくっついてくる夢だった。



目が覚めた後でも、顔や首、手についたどろどろの液体の気持ち悪い感覚が、

まだ残っているような気がして、わたしは慌ててシャワーを浴びた。

時計を見るといつもよりも1時間も早くて、窓の外はまだ薄暗かった。


わたしは、キルシュ亭が建っている方を見つめた。

チハヤはまだ寝ているのだろうか。それとも、もう起きて仕込みを始めているのだろうか。


チハヤに対して、好きという気持ちを持っていたということが、今だにわたしを少し戸惑った気持ちにさせた。

だからこそ、もう一度チハヤに会わなくちゃいけないのかもしれない。

チハヤの気持ちを聞きたかった。今になって、思う。本当は、一番に考えなくちゃ、聞かなくちゃいけないことだったのに。



わたしは、キッチンに入って、冷蔵庫を開いた。

段の真ん中に、チハヤからもらったチェリーパイがラッピングをされたままあの時と同じ状態で居座っていた。

わたしは、そっとそのチェリーパイを取り出した。ひんやりとした冷たさが手のひらに伝わってくる。


両手ぐらいのサイズのそれに、ぴったりと包んでいたラッピングを剥がして、お皿の上に置いた。

網かけされたふっくらとした生地の中からちらりちらりと覗くチェリージャムが、きらきらと光っていた。


「いただきます。」



朝からパイを食べるなんて、って作った本人に怒られそうだ。

ちらりとそんなことを思いながら、わたしはフォークで切り分けたチェリーパイを口の中に放り込んだ。

すこし甘酸っぱい味が口の中に広がっていった。


わたしは、お皿の上にあったチェリーパイをすべて食べ終えると、ゆっくりと息を吸った。

今朝のひどい夢のせいで胸の中に渦巻いていた気分の悪さが、嘘みたいにすうっと引いていった。





それからわたしは、ふわふわとどこか落ち着かない気分で牧場の仕事を終わらせた。時計を見ると1時を軽く回っている。

そろそろキルシュ亭に行かなくちゃっと思うのだけれど、

いざチハヤと面と向かって話しをするんだって思うと、少しだけ心が戸惑ってしまう。

軽く頭を振って気持ちを切り替えて、わたしはキルシュ亭に足を向けた。






「いらっしゃいませ!」


明るい声が店内に響いた。


「アカリさん、久しぶりだね!」

にこにこと笑いながら、マイが駆け寄ってきてくれた。つられてわたしも微笑んだ。

チハヤは今日、ウェイターをしていないみたいだった。


「うん、久しぶり。」

「座って座って、今だいぶ空いてきたとこだったの。」


わたしはいつもの席に案内されて、腰をおろした。

マイがわたしにメニューを渡してくれた。わたしはメニューの中からピラフを選んで、マイに伝えた。


しばらくして持ってきてくれたふんわりと湯気を立てたピラフがテーブルに置かれた後、わたしは彼女の方を見た。



「マイ。」

薄青色の瞳を見つめた。この中に、わたしがずっとほしくてたまらなかったものが詰まっていた。

欲しくて欲しくて、自分では見つけられなかったものが詰まっていたのだ。


「なあに?」


「わたし、チハヤが好き。」


自分でもいきなりだって思った。あのときのマイみたいだ。

わたしの口から転がりでた言葉は、すうっと空気の中に溶けていった。けれど、胸の中はまだどきどきしていた。

マイもこんな気持ちでわたしに打ち明けたのだろうか。



「前、恋愛感情じゃあないって言ったけど、本当は好きだったの。」


「・・・私に嘘ついてたの?」

「嘘じゃないわ。・・・わたし馬鹿だから、自分の気持ちに気づけなかったの。」



ぱちぱちと目を瞬かせていたマイが、わたしから視線を外して俯いてしまった。

わたしは、マイどんな言葉を言えばいいのか分からなくて、何を言っても、わたしは彼女を傷つけてしまうだけのような気がして、

マイが口を開くまでじっと、彼女の明るい髪の毛を可愛らしく結んだ結び目を見つめていた。



「どうして、私に言うの?」


「・・・マイに、言っておきたかったの。マイがわたしに言ってくれたみたいに。」


わたしは今、どんな顔をしているのだろう。


マイの薄青色の瞳は、ゆらゆらと海のように揺れていて、

わたしはずっと見つめることが出来なくて、まだうっすらと湯気を立てているピラフを見ることしか出来なかった。



「ごめんね、こんなの言い訳だわ。ただのわたしの自己満足なの。

わたし、マイからチハヤへの気持ち聞いて、すごくショックだった。チハヤのこと恋愛感情で好きじゃないんだって本当にそう思ったの。

でも、やっと自分の気持ちに気づいて、わたし、マイには言っておきたかったの。マイに言わずにチハヤには言えないって、そう思ったから。」


いっぱいいっぱいになってしまったコップの中から溢れ出てきたみたいに、

次々と出てきた言葉は、確かにわたしが思っていたことなのに、口に出してみるとなんだかぐちゃぐちゃだった。



「分かってたんだよ、アカリさんの気持ち。」


「え?」


一口も口にしていないピラフから目を離して、わたしはマイを見た。

マイは、肩をすくめて睫を軽く伏せた。


「でも、言わなかったの。だって、アカリさんが気づいちゃったら、二人付き合っちゃうから、って。」


「マイ・・・。」


なんていえばいいのか分からなかった。

ただわたしは、マイの瞳の奥が揺れているのを黙って見つめていた。


「さっきの言葉。言う相手は、私じゃないでしょ?

それ食べてもう少し待っててね。もうすぐ休憩時間だから。」



マイはそう言うと足早にキッチンの奥に入っていってしまった。


彼女が残した言葉がゆっくりと耳に沁み込んで消えていったとき、わたしの心の中に同じようにマイの気持ちが沁み込んでいった。






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