キャシーがわたしの家に来ることは、ひどく珍しいことだった。
わたしはほんの一瞬、チハヤが来たのかと思ったから、ちょっとドアノブに手をかけるのを戸惑ってしまったのだけれど、
トントンとドアを鳴らすリズムは、チハヤのものとは違っていた。
「キャシー、いらっしゃい。」
「なんだか久しぶりだね。」
キャシーは、玄関に入ったときに小さく笑いながら言った。
「ほんとに。」
今日は、仕事が休みだったみたい。おみあげのクッキーを受けとりながら、わたしも軽く笑った。
「あがって。今朝、絞りたてのミルクがあるの。ミルクティーでもどう?
「やった。ありがと。」
わたしは、キャシーの前にミルクティーとおみあげのクッキーを出した後、自分の前にも同じようにミルクティーを置いた。
キャシーの向日葵色の髪の毛は、わたしの家の中でも光を浴びてキラキラと光っていた。
光のせいか、キルシュ亭とはまた違ったキャシーの髪は、
金髪なのにどこかブラウンがかっていて、それはわたしにチハヤを連想させた。
チハヤの顔が瞼の裏に写るたびに、ちくりとまたどこかが痛む。
「アカリ、私が聞きたいこと分かるよね?」
キャシーの真剣な瞳がわたしを見つめていた。
わたしはミルクティーを飲もうとした手を止めて、のろのろと頷いた。
「チハヤとなにかあった?というか、あったんでしょうね。ここ最近、キルシュ亭に顔出さないし。」
言おうか言わまいか正直迷った。
チハヤとあんな風に別れて、まだチェリーパイを食べれてなくて、わたしの心の中はぐしゃぐしゃで。
今、このことをどんな風に言葉で表したらいいのか分からなかった。
なのに。
気づいたら、わたしの口は動いていた。
「ねえ、キャシー。」
「うん?」
「わたし、ずっとあのままがよかったの。」
「一緒にご飯を食べたり、ベッドで眠ったり。そういう二人でいるだけでよかったの。他にはなにもいらなかった。」
「・・・うん。」
「キスとかセックスとか、そういう恋人同士みたいなことじゃなかったの。ただ、一緒に時間を共有できることが楽しかった。」
わたしは、ひとつ息をついた。
キャシーが真剣に話を聞いてくれている。それが、わたしの心を安心させた。
「でもね、マイの気持ちを直に聞いてね。
マイが誰のことを想っているのか知ってたのに、わたし、その時初めて気づいた気分になったの。」
「・・・何に気づいたの?」
「わたし、きっとチハヤを好きになれないわ、マイ以上に。って、・・・漠然とそう思ったの。」
喉がからからになった。わたしは、少しさめてちょうどいい具合になったミルクティーを一口飲んだ。
キャシーは、ちょっと考える仕草をしながらミルクティーをかき混ぜていた。
わたしは、なにか間違った回答をしてしまったかのような気持ちになって、キャシーが言う次の言葉に耳をすませた。
本当は、言ってほしくはなかったのかもしれない。
言葉を吐き出した後でも、わたしの頭の中はぐしゃぐしゃだった。
「ねえ、アカリ。マイ以上に好きってどういうこと?」
「え?」
「逆に、マイ以上に好きじゃないってどういうことなの?」
「それは・・・。」
キャシーの言葉に、わたしはどう答えていいのか分からなかった。そんなこと、考えてもいなかった。
ただ、あの時、口から転がり出た言葉の重みだけが、わたしの気持ちのすべてだと思っていた。
「アカリさあ、チハヤとずっと一緒にいたいって言ったよね。」
「うん。」
「チハヤが幸せになってほしいって思ってる?」
「うん。だから、わたしは・・・。」
わたしが言葉を出そうとしたら、キャシーは待ってというように片手をあげた。わたしはキャシーにつられて口をつぐんだ。
「でも、でもねアカリ。できるならそれは、自分で幸せにしてあげたいって思ってる?」
「・・・・・・うん。」
わたしは助けを求めるような気持ちでキャシーを見た。
そんなわたしを、キャシーはひどく優しい瞳で見つめ返してくれた。
「それは、もう好きじゃん。恋愛感情としての好きなんだよ、アカリ。」
わたしはびっくりして目を瞬かせた。
どうして、キャシーはいつもわたしよりもずっと分かってるんだろう。羨ましいな。って思うよりも先に、
わたしの頬にぽろぽろと涙が転がり落ちてきて、いそいで手で目元を覆った。
マイとチハヤが、一緒にいればいいって思った。
そうしたらきっと、わたしよりもチハヤを好きでいるマイと、チハヤは幸せになれると思ったから。
だからわたしは。
チハヤを避けた。チハヤが幸せになってほしかったから。
でも、それよりもわたしは。恋をしたチハヤが、わたしの知らないところでどんどん遠い人になってしまうことが怖くて、
だから、わたしの方から遠ざけてしまえばいいと思った。
そうしたら、わたしの知らないところにチハヤがいく前に、わたしはチハヤとの距離がとれると思ったから。
傷つかないと思ったから。一人ぼっちにならないと思ったから。
結局、全部自分のためだったんだ。
「キャシー。わたし、間違ってた・・・・。」
「間違ってないわ。ただ、気づかなかっただけの話でしょ。」
「でも。」
チハヤにひどいことをしたわ。ひどいことも言った。
固くて透明な膜がわたしとチハヤの間に出来てしまった。ううん、わたしが作ってしまった。
「でも。チハヤに言うことがあるでしょ?チハヤの気持ち一回でも聞こうとしたことがあった?その点だけは、少し間違ってたかもね。」
「・・・うん。でも、いまさらわたし、チハヤになんて顔すればいいのか分からないわ。」
「じゃあ、ずっと避け続けるの?チハヤの気持ちも聞かずに?それこそアカリの勝手だよ。」
わたしは、あの日、冷たくて寒かった日のことを思い出した。
あの日にチハヤからもらったチェリーパイを。チハヤの顔を。声を。瞳を。明るい髪の毛の先っぽにくっついた雪の結晶を。
ひどく悲しい日だったのに、チハヤとの過ごした日々の中で一番に思い出した出来事だった。
もっと素敵な日々をチハヤと過ごしたはずなのに、
わたしの中で、チハヤとの思い出はその一日で止まって、それよりも過去の日々がひどく遠く感じられた。
これじゃいけないんだ。
「・・・わたし、明日キルシュ亭に行く。」
決心した声は、わたしが思っていたよりも小さくて、泣いてるせいでこもった声でぐしゃぐしゃだった。
だけど、キャシーはわたしの頭をポンポンと叩いてくれた。どんな言葉よりも、それが嬉しかった。
「ほら、もう泣かない。そのクッキー食べてごらんよ。おいしいから。」
促されるままにわたしは、キャシーが差し出した水玉模様のラッピングの中でうずくまっているクッキーを一枚つまんだ。
涙でてかてかになった頬を軽くぬぐった後に、わたしはクッキーを口の中に押し込んだ。
甘い香りは、詰まった鼻水のせいで分からなかったけれど、
口の中でゆっくりと溶けていくクッキーは、しっかりと舌で味わえた。
「・・・キャシー。これ誰が作ったの?」
キャシーは柔らかく微笑んだ。
向日葵色の髪が、さらりとキャシーの肩にかかった。
「あなたなら分かるでしょ?」
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