楽譜に泳ぐおたまじゃくし達を、わたしはぼーっと眺めていた。
それはすでに、真っ直ぐな五本の直線の中で、ごちゃごちゃと書かれたただの記号にしか見えなかった。
昔は、この紙を見ただけで、どんな音楽なのだろうとわくわくしたし、
また、頭の中で紙の中のおたまじゃくしたちを泳がせることができたのに。
「わたし、今は牧場をしているけれど、これでも昔は音楽を作っていたんだから。」
「アカリが?」
チハヤがちょっとこちらを向いた。彼が料理中の鍋から目を離すのは、珍しいことだった。
チハヤの紫色の瞳と目が合う。チハヤもわたしの瞳を見ているのだと思うと変な気分になった。
ちょっとという時間もなく、彼はまた鍋の方に視線を戻した。くつくつと鍋から小さな鳴き声があがった。
「ううん、いや。そんな感じはしてたんだ。
ただ、牧場をしているきみしか、僕の頭の中にはないからね。」
「昔はね、言葉を聞くだけで頭の中に符号が浮かんだの。ポンポンポンってね。
まるで、蛙の卵の群れから何百匹ものおたまじゃくしが生まれてくるみたいにね。
たくさんたくさん思い浮かべることができたの。」
「おもしろいね。」
わたしは、相槌を打つチハヤの言葉を頭でもう一度思い浮かべた。
『おもしろいね。』
何ひとつ変化はなく、おたじゃくしは一匹も生まれてこなかった。
真っ白な池は、真っ白なままだった。
「どうして、この町に来たんだい?」
彼は、なんでもないかのように、声を空気に乗せ、わたしに聞いてきた。
彼のふうわりとしたオレンジ色の髪の毛が、ひょこりと動く。
光にあたると薄紅色にも見える彼の髪の毛を眺めながら、わたしは次の言葉をどんな調べに乗せようかと思った。
けれどさっぱり思い浮かばない。
昔は、自分の言葉の一音一音にまで、音楽を感じることができたのに。
ふっと息を吸い込む。
彼の頭がちらちらを光ってオレンジと薄紅色の不思議な色合いを見せていた。
「この町には、ピアノがないからよ。」
ピアノという言葉を口に出した後、わたしはかつて演奏していたピアノたちの姿を思い浮かべた。
白と黒の鍵盤を押すと、溢れ出てくるようにさまざまなメロディーが奏でられていく姿。
見た目はたった二色の色しかない楽器なのに、その多様な音の数は、幼いころのわたしを夢中にさせるには充分な理由だった。
わたしは、ピアノを愛した。
愛しすぎるくらい、片時も彼の傍から離れたことがなかったときもあるくらいだ。
それくらい深く、そこらへんの安っぽい人間の恋愛よりも深く、そして情熱的に、わたしは彼のことを愛おしく持っていた。
ピアノの音は、一番わたしの耳の中に心地よく響いた。
彼だけが、わたしの一番好きな音を知っているかのようだった。
「きっと、わたしが音を愛せなくなったのよ。」
「・・・音を愛する?」
「昔はね、何でも音楽に出来たって言ったでしょ?
でもね、ある時、急に分からなくなっちゃたの。音楽って、曲ってなあに?って。」
「そういうことがあるんだね。」
「その時ね、わたしはひどくピアノを恨んだわ。
これ以上にないってくらいにね。愛し方もすごかったから、憎み方もすごかったの。本当は自分のせいなのに。」
「そうなんだ。」
「わたしのこと・・・どう思う?」
「君が捨ててきた過去について、とやかくいう資格は僕にはないからね。」
「じゃあなぜ聞いてきたの?」
「ただ君の過去が知りたかっただけだよ。
アカリという人がどんな風に育って、どんな風に生きてきたかをね。」
「チハヤにしては珍しいわね。」
「アカリのことだからだよ。」
ひゅと音が鳴ったみたいなチハヤの言い草に、わたしはちょっとだけきょとんとなった。
チハヤは今まで目を向けていたナベから目を放し、わたしの方を向いた。
「カレーライス、できたよ。」
「チハヤは・・・チハヤはこういうことってないの?」
「君のような感情を抱いたことは、今のところまだないかな。」
「そう」
「でも、僕が今、きみに向けている感情が、いつかそうなるかもしれない。」
ふっと、目の前に小さな影ができる。
すぐに、チハヤの腕がわたしのすぐ目の前にきていて、彼の腕がわたしの前に影を作ったことがわかった。
テーブルを隔てた向こうから、チハヤの腕はまっすぐとわたしに向かって伸びていた。
真っ直ぐと影は伸びているはずなのに、それがわたしには奇妙に歪んでいるように見えた。
「チハヤ?」
「それぐらい、きみのこと考えているってことだよ。」
「アカリが紡ぐ音楽を、一度聞いてみたかったな。」
「もう無理だわ。」
「うん。でも、だからこそ、宝物を探すような感覚になる。」
「アカリ。」
彼の声が、わたしの耳に届く。
チハヤに髪の毛を触れられる。
ふっと、瞳を閉じてみる。
できるだけ、彼だけが、チハヤの存在だけが、確かめられるように。
目も耳も口も鼻も、チハヤの存在だけを求めるように、神経を集中させた。
すると、ぷわあっと、まるで空が明るくなったかのように、いや、もう少し落ち着いた感じで、
耳の中にチハヤの声が滑り込んできた。
チハヤの声が、音となり言葉となり、ころころとわたしの耳の中を転がっていった。
彼の声をおたまじゃくしで並べてみたいと、いま、そう思った。
「チハヤ。」
わたしの声も、ころころとチハヤの耳の中に転がっていっているだろうか。
せめて彼の名前だけは、音楽を奏でるように、空気に触れてほしいと思った。
「わたし、あなたなら、きっとおたまじゃくしを泳がせことができる。」
言った後、こんなこと言ってしまってよかったのだろうか、という思いが頭の中を過ぎった。
昔のように、真っ白な楽譜の前で、指が一本も動かなかったらどうしようと思った。
そう思っていたとき、チハヤがゆっくりとわたしの髪の毛を撫でてくれた。
「おたまじゃくしって、可愛い言い方だよね。」
チハヤの指が、わたしの髪を撫でるときに、さらりとわたしの耳の頭に当たった。
ぱあーんと弾かれたようだった。
チハヤが少し嬉しそうに肩を一度揺らした。
きっと、彼は次になにか言ってくれる。
彼が発する一音も身逃さないように、私はもう一度瞳を閉じた。
頭の中には、おたまじゃくしが充分泳げる真っ白な池が、悠々と広がっていた。
それは、彼だけに施せる、わたしの音楽だった。
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