先日の秋みたいな気候とはうって変わって、今日はまさに冬そのものの気候だった。
わたしが、放牧をしようと思って動物小屋から動物たちを出そうとしたときに、ちらりちらりと雪が降っていたので、
慌てて動物小屋に戻したのが今朝のことだった。
動物たちの世話が終わって、ぐーんと背伸びをした頃に外に出てみるともう雪は降っていなかったけれど、
肌がぴりぴりとするような寒さだった。
もう昼に近いし、お腹も減ってきたから、家に戻って昼ごはんを作ろうと思ったのだけれど、
冷蔵庫の中に残っているのは、傷みかかったほうれん草とワイン一本だけだった。
今日絞ったミルクと、取れたての卵もあるのだけれど、その4つの品数でお昼にぴったりな料理を思いつくほど、
わたしの料理経験は高くない。
わたしはちらりと、そこまで大きくない水槽の中で泳いでいる魚を見た。
タオさんからサンドイッチのお礼にってもらった魚は、食べようかと思ったのだけれど、
魚なんて焼いたことも煮たことも、生で食べれるようにさばくこともしたことがなかったので、
わたしは迷ったあげく、漁港でオズさんからもらった古い水槽に入れてやった。
悠々に、とはいえないほど狭い水槽の中で泳いでいる魚を眺めながら、わたしは小さく溜息をついた。
あの魚なら昼ご飯のメインとして申し分ないのだけれど、・・・自分の料理の腕を少し呪いたくなった。
たまたま、朝寝坊してしまってお弁当を作れなかったから、というよりは冷蔵庫の中身が悲惨なものだったから。
別に、タオさんから言われたから、とかじゃない。って言い聞かせながら、
わたしはちょっと後ろめたい気持ち、っていったらいいのか分からない微妙な気持ちを抱えたままキルシュ亭の前に来ていた。
入ったら、やっぱりいるんだろうな。今日がお休みの日だったらいいのに。
瞼の裏ではいつだって、チハヤの姿を思い描くことができる。髪の毛の色だって、着てる服だって、ヘアピンも声も瞳の色も。
ドアの前でちょっとだけ、軽い深呼吸をした。
わたしはただご飯を食べに来ただけなんだから、こんな告白する前みたいなことする必要なんて全然ないのに。
わたしは、最後にえいっ、て掛け声を心の中でかけてから、キルシュ亭のドアを開けた。
「いらっしゃいませ!」
初めに聞こえたのはマイの声だった。
なんだか久しぶりの雰囲気に、わたしはちょっとたじろいだけど、すぐにいつも自分が座ってるお気に入りの席に座った。
「いらっしゃい。」
ふっと、目をあげるとチハヤがすぐ近くにいた。
「あ、うん。いらっしゃいました。」
「なにそれ。」
くすっと笑うチハヤはいつものチハヤだった。いつものって、おかしい表現なのだけれど。
「久しぶりだね。忙しかったの?」
「うん、それなりにね。」
チハヤの声を聞くのは久しぶりだった。
頭の中で、いままで聞いてきたチハヤの声を反復するのとは全然違った。
「メニュー、何にする?」
「・・・じゃあ、オススメで。」
「わかった。」
くしゃっとしたブラウンの髪も、いつものシャツとエプロンも、ヘアピンも、紫の瞳も。
いつものチハヤなのに、いつものなにも変わらない会話なのに、わたしは自分が上手く話せてないような気がした。
「ねえ。」
「・・なに?」
「今日、家に行ってもいいかい?」
わたしは、チハヤの顔を見た。視線の先で、紫色の瞳とぶつかった。
綺麗な瞳だった。その瞳を見つめただけで、うんって返事をしたくなってしまう。
「えと・・・。」
「駄目?」
濁したわたしの返事なんて打ち消してしまうように、チハヤは机に手をついた。
見つめられる。紫の視線を、わたしは逸らせなかった。
「チハヤ。」
マイの声だ。すいっと、チハヤの視線が外れた。わたしは、心の中でほっ、と息をついた。
もう少し遅かったら、絶対、頷いていた。
「なに?」
「えっと、ね。今日、料理教えてくれないかな?」
少し目を伏せて、小さな声で言うマイは本当に可愛らしかった。
わたしは、ちょっと胸の中が痛くなった。どうしてなのか分からなかった。
「今日は・・・。」
チハヤがわたしの方を見てきた。「用事があるって言っていいかい?」と目が言っていた。
わたしはひとつ、瞬きをした。
「チハヤ。わたし今日、先客があったの。だから、マイに料理教えてあげて。」
「え?」
チハヤが驚いた顔をした後に、わたしをじっと見つめた。
「そうなの?」
「うん。忘れてたの。」
チハヤは、もう一度わたしの顔を見つめたけど、ふっと肩をすくめた。
「そっか。分かった。じゃあ、マイに料理を教えるよ。」
「やった!ありがとう。」
マイの嬉しそうな顔を見て、わたしはこれでよかったんだよねって思った。
思ったのに、じくじくとした痛みが心ん中で生まれてきた。
チハヤがどんどん遠くなっていく気がした。おかしな話だ。
遠ざけようとしているのはわたしなのに、どうしてこんな気持ちになるんだろう。
しばらくして、持ってきてくれたおいしそうなランチを見ても、食欲をなくしてしまって、全然食べたいとは思えなかった。
でも、一瞬、楽しそうに料理をするチハヤの顔が頭に浮かんだから、わたしは、ゆっくりとフォークを取った。
口の中に無理やり押し込んだのに、なんの味もしなくて涙が出そうになった。
一生懸命、愛おしそうに調理用具を扱う、チハヤの姿を知っているから。
わたしは、こんな食べ方しかできなくて、チハヤを裏切ったような気分になった。
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