今日も僕は、カラメル川が流れる土地へ訪れる。
そこは、前はただ青々とした緑が広がっているだけの土地だった。
町はずれで、釣りを興じに行くぐらいの場所だったので、市役所通いの僕でさえ、とんと足を運んでいなかった。
そんな人気のない静かな土地に、最近新しい住人が住んでいる。
僕が今、出向いている牧場に、彼女の家は建てられていた。
同世代の、しかも女性一人だけでの初めて牧場経営だ。辛くないはずがない。
せっかく、この島の新しい住人となったのに、すぐに出て行かれては困ると思って、僕は彼女を見たら出来るだけ声をかけるようにしていた。
初めは、ただそれだけだった。
だから、今みたいに、わざわざ市役所の休憩時間や帰り道に、牧場に足を向けることなどなかったのだ。
けれど、今は牧場に向かっている。
どうしてと、理由を請われてもなんて言えばいいのか分からなかった。
気づいたら、そう本当にいつの間にか、
彼女と話を重ねるようになってから、自然と僕は牧場を訪ねるようになった。ただ、それだけだった。
カラメル川に架かる橋を渡って、少し歩いた先に彼女の牧場があった。
昼も少し過ぎた頃で、動物たちはゆっくりと牧草を口に運んでいた。辺り一体になごやかな空気が漂っている。
そんな牧草の隣にある畑の中で、アカリはしゃがみこんで土をいじっていた。
僕が、彼女に声を書ける前に、アカリがこちらを向いた。
「ギル。」
僕が軽く手を挙げると、アカリは手についた泥を払いながら明るい笑顔を見せた。
「今日は、いい天気だね。ちょっと日差しがきついけど。」
「帽子くらい被ったらどうなんだ。」
ああ、そっか。と頭に手をやって照れ笑いをしているアカリの足元では、作物の苗たちが元気そうに、ぐうんと葉を広げていた。
僕が目をやっているのに気づいたのか、アカリはひとつひとつ葉っぱの形が違う苗を指差しては、数えるように作物の名前を言っていった。。
「これは、ヒマワリ。その隣がスイカとハーブ。変な形の葉っぱが、チョコの実で、あの葉っぱが細いのがトウモロコシ。
その隣の支えをしてるのがトマト。あ、ギルの好きなトマトスープ作れるようになるね。」
「随分、たくさんあるのだな。」
「家畜があまりいないからね。その分、作物の出荷で稼がないと。」
もっと、増やせばいいだろう。という言葉をかろうじて僕は飲み込んだ。
牛と羊が一頭ずつ。牧場にしては少ない数だった。
育てるのが容易な鶏を飼えと、アドバイスしたのはもう随分前だ。
しかし、いつも僕のアドバイスを快く聞いて実行しようとする彼女は、初めて見せた頑なな拒否を見せた。
理由が分かったのは、彼女が家に招待してくれるのを、初めて僕が承諾したときだった。
「家、寄ってくよね?」
明るく、アカリが聞いてきた。
勢いよく僕の方を振り向いた彼女の頭の上の麦わら帽子が、日を浴びてちらちらと光った。
「ああ。」
彼女の声につられて、僕の声まで少しだけ明るくなったような気がした。
「入って、入って。」
そう言うアカリの言葉に従って、僕は彼女の家に入った。
一番初めに目に飛び込むのは、やはり鳥かごだった。
彼女の家は、まるで鳥かごを中心にして彩られているのではないかと錯覚してしまうほど、この部屋での鳥かごの存在は大きいと思った。
「リア。」
アカリが、すっと小鳥の名前を呼んだ。
チチッと可愛らしい返事のような声を出して、小鳥はちょっことこちらを向いた。
ふふっ、とアカリが柔らかく微笑んだ。その姿に、僕はすこしだけ目が細くなった。
ふと僕は、彼女がその小鳥の名前を呼ぶ声に惹かれたのかもしれない、と思った。
「リア」と、すっと、柔らかく空気に響いた彼女の声が、まっすぐにリアまで届く。
それは高すぎでも低すぎでもない正確な音色になって、リアの耳にすべりこむ。まっすぐ、リアだけに届けようとする声だ。
そんな音色の中で、たまたま僕にこぼれた音を聞かせてくれたのだ。
それだけで、僕は彼女の声が耳から離れなくなった。
そのときの彼女は、きっと自分自身も鳥になっているのだ。その時だけ、彼女は鳥となってリアに呼びかけることが出来るのだ。
鳥になった彼女の声は、ぴったりとリアの耳に収まるけれど、僕の耳には完璧に届かないのだろう。
なにか一つ、その先にも潜むものがあるんじゃないだろうかと思ってしまう声だ。リアのためだけの声だ。
だからこそ、僕の頭からくっついて離れないのかもしれない。
リアの、羽は美しかった。澄み渡る青だ。慈しむ広大な海の色だ。どこまでも飛んでいけそうな空の色だ。
すべてが吸い込まれそうになるほど、目に沁みる色だった。
「そういえば、ジュリさんが来てね。リアの羽を一枚ほしいって。」
僕が、リアの姿に目を細めていると、アカリが今思い出したかのように言の葉を紡いだ。
「そうか」
僕は、短く答えた。
とうとう告白するのか。早いのか遅いのか、期の流れを掴むことはできなかったが、二人が並ぶ姿は似合っていると思った。
「ジュリさん、とっても嬉しそうだった。」
「毛を引き抜いたのか?」
「まさか、そんなことするわけないじゃない。毛づくろいのときに落ちた羽で一番キレイなのを渡したの。」
「そうか。」
「この島の風習なんだよね」
「知らなかったのか?」
てっきり父上が話をしていると思っていた。けっこう、いやかなりロマンチストな人だから。
「聞いてはいたけど、でも目の当たりにすると不思議な気分。」
アカリは淹れたての紅茶を僕と自分の前に置いた。それからゆっくりと、リアの頭をなで始めた。
指先にまとわる産毛のようなほそい毛の先まで、洗練とした美しさがある。
「君の故郷では、どんな風習だったのだ?」
「・・・私の、ところ?」
「そう聞いている。」
アカリは首をかしげて瞬きをした。
それから曖昧に微笑んでみせるだけで、ただリアを優しく撫でていた。
僕は彼女が何も言いそうになかったので、黙ってティーカップに口をつけた。
「上手くいくかな。ジュリさん。」
「さあな。でも・・・。」
「でも?」
「・・・リアの羽は、本当に幸せを運びそうな気がするのだ。」
ぽつりと、僕がいうと、アカリは本当に嬉しそうに白い歯を見せながら笑った。
その笑顔は、僕まで明るい気分にさせてくれる笑顔だった。
「うん、そうだよね。」
「今日は、とっても機嫌がいいの。ギルがいるからかな。」
「僕が?」
「この子、ギルのこと気に入ってるみたいなの、ね?」
アカリはリアの籠を軽くつついた。チチっとリアが答えるように鳴いた。その声を聞いてアカリは嬉しそうに頬を緩めた。
ああ、そうか。
リアが、アカリにとって一番なのだ。
鶏を飼わないのも、村で一番のどかな場所に家を建てたのも、すべてリアのためだ。
アカリの声でさえ、リアのためにあるのだ。
アカリはリアを呼ぶ時だけ、鳥になるのだから。
分かっていたことなのに、改めてつきつけられたような気分になった。
僕は、にぶいものが腹にこみ上げてくるのを感じた。これがどんな気持ちなのかよく分からなかった。
けれど、焦げ痕のようにそれは、じわじわとしつこく痛んだ。
「ねぇギル、リアがそうだって言ってるよ」
頬を緩めたままアカリがこちらを向いた。
リアに向けていた笑顔をそのまま僕にも向けた。その笑顔が、僕の痛みを広げているなんてアカリはひとつも知らないだろう。
「・・・君の勘違いだろう」
「えー、そうかなあ。」
アカリが笑っている間に、フィーッとお湯が沸いたことをヤカンが知らせてきた。
その音に、彼女は慌てて立ち上がって、リアの鳥かごから離れた。
もしも、彼女が僕の名前を、リアのように呼んでくれたら、この痛みは収まるだろうか。
くだらない考えが頭の中に浮かんだけれど、それを打ち消すようにリアがチチチと鳴いた。
僕はリアに一瞥すると、軽いため息をつきたい気持ちを押し込んでから、アカリのいるキッチンに向かっていった。
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