今日は、鉱山まで足を運んでいたので、夕暮れから少し遅れた時間に自宅のドアノブに触れた。
カチャリと小気味のいい音がして、ドアが開いた。
役目を果たさなかった小さな鍵が、私の手の平の中で黙ってうずくまっていた。
パタンとドアを閉めるとともに、おいしそうな匂いが鼻腔の中に広がった。
温かな光が天井から、部屋に溢れている。
「チハヤ。」
私は、合鍵を持って私の家に入ることができる唯一の人間の名前を呼んだ。
彼の名前は、私の喉の中を一番綺麗な音がそろって転がっていき、三つの言葉が空気に触れた。
名前を呼ばれたチハヤは、キッチンのオーブンを覗き込むのをやめ、私の方を見た。
「おかえり、アカリ。」
ちらりと笑ったチハヤは、私の声よりももっといい声で、私の名前を呼んだ。
彼に呼ばれたら、自分の名前が自分の名前ではないような不思議な感覚が胸に残る。
チハヤにつられて、疲れていることなど忘れて、私も頬を緩めた。
「今日の料理あててごらん?」
*** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
私は、目をつむって鼻をきかせようとしたけれど、
おいしそうな匂いの正体が、一体なんなのか検討もつかなかった。
ただ、匂いを嗅ぐごとに自分のお腹が抗議をしそうなほど、お腹を空かせていることが分かったくらいだ。
「においだけじゃ分からないわ。カレーとか特徴があるものでなきゃ。」
「ふふ。じゃあイスに座って?持ってってあげるから。」
「うん。」
私は、チハヤに言われたとおり、イスに腰掛けた。
イスに座ると同時に、今日溜めていた疲れがどっと身体にのしかかってきた。
「さあ、できた。」
チハヤは、鍋からたっぷりと今日のお料理をお皿に注いだ。
「アカリ、目を瞑って。」
「言われなくても、今瞑っているわ。」
私は、ゆっくりと瞼を下ろした。
もしかしたら、チハヤが机の上に夕食をおく姿がちらりとでも見えるかもしれないと思ったからだ。
料理を見たいというよりは、料理を持っているチハヤの手が見たかった。
彼が、料理に向ける愛情のかけらが、料理を持つ彼の手から感じられるかもしれないと思ったからだ。
「はい。」
コトリと、机の上にお皿が置かれた音がした。
もわりと熱い湯気が私の顔までのぼってきた。
おいしそうなにおいは変わらないままだ。
私は、ついにチハヤの手を見ることができなかったと、残念に思った。
「どうぞ、お召し上がれ。」
「チハヤにスプーンを渡され、ぎゅっと握られる。
そのまま、二人で一緒にスプーンでお皿の中身をすくった。
チハヤが私の代わりに、軽く息を吹いて冷ましてくれた。
ゆっくりと、スプーンが私の口に近づくのが分かると、私は少し戸惑いながら口を開けた。
ゆっくりと、慎重に、口の中にスプーンの中身が入ってきた。
その熱さに少しむせてしまいそうになったが、なんとか口の中で噛み、一体どんな料理なのかと吟味した。
チハヤの料理は私の舌に転がされて、噛み千切られ、喉の奥底にしまいこまれていった。
「分かった?」
「シーフードシチュー・・かな?」
「ご名答。さすがアカリだね。マイぐらいすごいよ。」
「マイと比べないでよ。あの子はプロじゃない。」
瞼をあげるとすぐ目の前にチハヤの顔があった。
にこりと微笑んで、私のおでこにこつんと自分のおでこをくっつけた。
「よくできました。」
ちゅ、っと音を立ててキスをされた。
私は驚く暇もないまま、ただびっくりとしているだけだった。
二人の間でスプーンは、まだお互いの手の中で次の仕事がくるのをひっそりと行儀よく待っていた。
*** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
お店の前で打ち水をしていると、仲良くふたつの頭が並んで、こちらに向かっているのが見えた。
オレンジ頭と焦げ茶頭。
「チーハーヤー、ちーこーくー。」
「今日は遅番って言ってあるの。ちゃんとシフト見てる?」
「冷たいなあー。アカリさん今の聞いた?」
ころころと笑いながらアカリさんは、頷いた。
日光に反射して、アカリさんの焦げ茶色の髪の毛がちらちらと光った。
「じゃあ、わたしこれから仕事だから。」
「うん、気をつけて。」
「チハヤ、送ってもらったの?」
「違うよ。アカリは今日これから農場に行くから、道が一緒だったんだって。
かんちがいマイ。」
「最後の一言余計だからー。」
「騒いでないで、仕事仕事。」
「分かってるって!」
ひらひらと手を降られ、
パタンとキルシュ亭のドアが閉まって、オレンジ頭は家の中に消えていった。
・・・気のせいかな。
チハヤがアカリさんを見ているときの目は、たまに、とても怖かった。
別に睨みつけているとか、恨んでいるような目、というわけじゃあないんだけど。
チハヤからは、きちんとした(っていったらなんだかチハヤが生真面目な恋をしてるみたいだね。
そうじゃあなくて…、チハヤのアカリさんに対する愛情は、
きちっと隅々まで行き渡るような、そんな愛情のような気がする。
彼にとって、アカリさんはかけがえのない存在なのだということが、
ひしひしと空気に混じって、私の肌に伝わってきた。
それは、とても羨ましく思えたし、それとともに、
私には分からない透明な殻の向こうに、二人が収まっているような気がして、少し寂しくなった。
結局私は、チハヤとアカリさんの恋に嫉妬しているだけなのではないだろうか。
そんなこと思っちゃいけない。
さ、仕事だ。
きっともうすぐおばあちゃんから、ハーバルさんが頼んだランチを渡される。
お客さんが食べた後に残された、ぺっとりと残りかすがついている食器たちを、キレイに洗わなくちゃいけない。
さあ、がんばるぞ!
そう思って、私は厨房に目を向けた。
すると、
ふとチハヤがアカリさんを見る時の目が、
彼が職場で愛する物たちを見る時と全く同じだったということに気づいた。
紫色の硝子のような瞳が、
映す世界はきっと、アカリさんと彼らだけ、より美しく映しとるんではないだろうか。
(ああ、だからこそ、彼が彼女を見るときの目は、あんなにも愛しそうだったのか。)
一瞬、そう思った感情は、たぶん間違いじゃあない。
*** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
この島にくる前、たまたまバスに乗っていたら、
仲のよさそうなカップルが手をつないで楽しそうに両の手を揺らしているのを見かけたことがあった。
後姿しか見ていないけれど、彼らの柔らかで二人だけの空間が、
とても居心地がよさそうで、幸せそうだった。
私もいつか、彼らみたいな空間を、
誰かと作れるのだろうかとぼんやりと思いながら、彼らの後姿を見送った。
*** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
仕事から帰ってくると、いつもなら、いないはずのオレンジ頭が、家の中にいた。
それは、見慣れた景色の中にぽこっと突き出ている異物のように、私の視界に入ってきた。
私はいるはずもない彼の姿を見て、ちょっとびっくりした。
チハヤは、私が帰ってきたことに気づくと、
私の方を見て、にこっと微笑んだ。
チハヤの顔を見る。
家を灯す照明の光で、チハヤの髪の毛は、夕焼け色にも見えたし、ピンク色にも見えて、
それはとても不思議な色合いだった。
「おかえり。」
柔らかな声が空気に触れる。
高くもなく低くもない、私にとって調度よい音たちが、
私の耳に届いてくる。
その音たちが、彼から紡ぎ出されたのだと思うと、
どうしようもなく愛しく感じてしまう。
私の耳の中に、録音をして、ずっと残しておきたいと思った。
「ただいま。」
私もチハヤの耳の中で、音たちが心地よく響いてくれるように、
限りなく優しい声で、言の葉を紡いだ。
*** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
きっと毎日がこんな風に、たんたんと、緩やかな変化を交えながら、続いていくのだろう。
その時、あなたが私の隣にいてくれたらどれほど幸せだろう。
ただ、傍にいてくれたら、それでいい。
それだけが私の幸せなのだから。
ベッドで瞼を瞑るとき、考えるのはあなたの瞳と、鼻と口と。あなたのひとつひとつを思い出している。
そして、もう一度頭の中でおやすみって言うの。
また明日、今日や昨日のように穏やかな日が訪れることを願いながら。
|