手を伸ばせば、チハヤの髪の毛に指が触れた。
そんな間近にいるにもかかわらず、私の胸にはドキドキの一文字も浮かんではこなかった。
これが、俗にいう倦怠期というものなのだろうか。
ぼんやりとした頭の中で、私はそんなことを思いながら、チハヤの髪の毛の数本を軽く指に絡ませた。
チハヤは長い睫を(それについて私が言うと、チハヤはいつも私の睫が短いのだと皮肉を言ってくる)伏せて、
すやすやという単語がまさにふさわしいといった様子で、眠りに落ちていた。
彼の穏やかな心臓の動きを私は隣で感じながら、それよりもゆっくりと動いている自分の心臓の音を聞き分けようと耳をすませた。
『チハヤ』
声に出さずに、彼の名前を呼んでみる。
チハヤは睫ひとつ震わせずに、夢の中をただよったままだった。
私はそんな反応ひとつにすら、彼に対していらだたしさを感じていた。
この倦怠期が、いつ始まったのか分からなかった。
それは足音ひとつ立てずに、突然私の胸の中から生まれたものだった。
ひっそりとどこかで待ち構え、タイミングを計っていたかのように、
その症状は私にひどくなつき、ぴったりと私の中に収まってしまった。
以来私は、チハヤに対して、どきどきの一文字も出ない、なんともあいまいで微妙な心情を抱いたまま日々を過ごしている。
前まで、チハヤのひとつひとつの動きに、
私の心臓はびっくりするくらい早く動いていた。
髪に触れる手。
笑う時に上がる口角。
料理しているときのまなざし。
そのひとつひとつが、私の中ですべてになっていた。
なのに、そのひとつひとつの仕草すべてが、
私の中で光を失い、しゅるしゅるとドキドキのかけらを失ってしまった。
こうなってはもう手のほどこしようがない気がした。
チハヤが私の髪の毛にふれたり、頬をなでたり、キスをしたりしても、
私はただそれを受け止めるだけで、新しい何かが産まれることはなかった。
しゅるしゅると消えてしまったかけらは、もう元通りにはならないのだ。
そんなとき、私はとても虚しい気分になる。
あのかけらはどこにあるのだろうかと、私の心の中を全部床にぶちまけて、
洗いざらい探し出したくなる。
でも、もうそれはもう、きっと見つからない。
初雪のように、綺麗なまま消えてしまったのだから。
『チハヤ。』
もう一度、彼の名を呼ぶ。
心にはなにも変化がない。
それがとても虚しくて、でもどうしようもできなかった。
相性が悪かったわけじゃない。
喧嘩をしたわけじゃない。
どこか嫌いになったわけじゃない。
ただ、もう好きじゃない。
好きという感情がなにか分からなくなってしまっただけなのかもしれない。
それでも、そう思っても、チハヤに対しての愛情が特別という形では生まれてこなくなってしまっていた。
『ねえ、私たち別れたほうがいいのかな?』
声に出さずに唇だけ動かして、私はそう言った。
彼の睫は動かないままだ。
それでも私は、これがチハヤに言いたかったことなのだと思い、心のどこかが軽くなったような気がした。
チハヤの額にそっと唇をよせる。
彼の肌は、温かかった。
彼の睫が動いたとき、私はきっと彼に別れを告げるのだろう。
さよならのキスをしながら、私は静かにそう思っていた。
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