春の夜空は、澄み渡るというよりは青のペンキの上からがさがさと黒のペンキで塗りつぶしたような色だった。
目を凝らせば、下地になってしまった海が見えてくるような気がする、そんな色合いだ。
砂浜の上に手を置くと、じんわりとした冷たさが伝わってくる。
春の暖かさの裏側を感じ取ったような気分になる冷たさを、手の平で転がしながら感じていると、
ぽかんとした空間に放り込まれたような気持ちになった。
真っ黒に姿を変えている海の中に飛び込んでしまいたくなる。
そうすれば、少しは私の身体の温かさを感じることができるのではないだろうか。
「ヒカリ。」
すぐ隣から、ぽつりと発せられた音に返事をするために、私はこくりと頷いた。
「なあに。」
彼の方を向く。
優しい声。聞いて、安心する声。落ち着いていて、すこしぼんやりとした空気が混ざっている。
「星・・・見てる?」
彼の声は、すーっと私の耳に馴染みやすい声だった。
まるで私のために、私の耳にちょうどぴたりと滑り込むことができる声を彼が作り出してくれるかのようだった。
「うん。見てる。ちらちらと光ってて、かわいいね。」
私の声も、彼の耳に心地よく響いてくれたらいいと思いながら、私は言の葉を述べた。
すっと暗やみに溶け込んでいく。
上を見上げたら、無数の星たちが自分たちの輝きを一身に見つけてもらおうと瞬いていた。
彼が空に向かって指を伸ばした。暗やみの中で、ぼんやりと彼の指の形が見てとれた。
彼が指差した方を、私は一身に見つめようとした。
「あそこの長く尾のように伸びて、星たちが浮かんでいるのが・・・うみへび。・・見える?」
「あれかな。空の上なのに、うみのへびが泳いでいるのね。」
「昔の人・・・考えることがおもしろいから・・。」
彼のその言い方がなんだかおかしかった。
私は小さく笑ったけれど、笑い声になる前の私の声は、どこか遠くで鳴っているように聞こえた。
「魔法使いさんは、星座をすべて覚えているの?」
「・・・一応、・・ひととおりは。」
「すごい。」
溜息のような声が出た。
彼に届いたか不安になるような声の出し方をしてしまって、
私は不安になって彼のことを見たけれど、彼の耳にはきちんと私の声は届いていたようだった。
彼は、折っていた足をぺたりと砂浜においた。
「ヒカリが、・・・作物の種の名前やそれぞれ植える時期・・・、育て方や摘み取り方を覚えるのと一緒。」
「そうなのかな。」
こくりと頷く彼。
その仕草がなんだか、愛おしく思えてしまった。
温かな彼。星座の名前をすらすらと言うことができる彼。私の隣にいる彼。
それは、この上もないほど素敵で、そしてうっとすりするような時間のように感じた。
「この前・・・、ヒカリがコーヒー粉を持ってきてくれたとき・・・。星座盤・・見たよね?」
私は、ちょっと目を瞑って、あの時のことを思い出そうと瞼の裏を見つめた。
貯蔵していたコーヒー豆は、挽いたら香ばしい香りがした。
嬉しくなって、コーヒーが大好きな彼の元に、届けに行ったのはつい数日前のことだ。
「うん、覚えてる。」
「いくつか・・あの時俺が言った星座・・・今浮かんでいる。」
「ほんとに?」
ぽつりと彼が言った言葉が耳に滑り込んでくると同時に、私は空を見上げた。
瞬く無数の数の星たち。
限りなく多くて、そしてどれもが違う顔のはずなのに、今は同じ顔をして私を見つめているようだった。
私の頭の中が、こんがらがった糸のようにもつれ始めた。
「えーっと、ちょっと待ってね。」
「いくらでも・・。」
彼が小さく笑ったような気配が、感じられた。
私はこんがらがった糸を、懸命にほどきながら空に浮かぶ星を見つめ続けた。
「えっとね・・・。」
「うん。」
「あれが、北斗七星なのは分かるの。北にある七つの星。」
「うん、正解。」
「じゃあ、北斗七星はなんの星座の一部か分かる・・?」
「…おおいぬ座?」
「…違うよ。これはおおぐま座。おおいぬ座は冬に見れる・・。」
彼の指先を追う。
けして白い肌ではない彼の指が、それでも暗やみの中でぼんやりと浮かんでいるのが不思議だった。
「南の方に向かって、十八の星たちが連なっているのが、獅子座。」
「でもあれは、獅子座っていうよりはクララに似ているし。」
「クララ?」
「最近飼いはじめた羊の名前なの。」
「…ひつじ?」
ことりと彼が首をかしげた。ふわりと彼の三つ編みが揺れた。
「うん。ふわふわしていてね、とっても可愛いの。」
私は手を使って、クララがどんなにふわふわしているか伝えようとした。
けれど、私の指の動きはただいったりきたりしているだけで、
とてもじゃあないけれど彼に伝わっていないように思えた。
「今度牧場に来てくれたら、クララに会えるし・・・あ、そうだ。もうすぐ子牛がね、生まれてくる予定なんだよ。」
「昼…眠いから。気、進まない。」
「もー。んーとじゃあ。夜に来てくれたらいいよ。あの子たちが寝てるところをこっそりとね。」
「・・・うん。」
こくりと彼が頷く。
私はにっこりと微笑んだ。
「あのね、その時でもまた違う日でもいいんだけど、星座教えてほしいな。」
「うん。」
「ほんと?」
「うん・・、でもヒカリが見えるように星を見たらいい・・なんだか、おもしろいし・・。」
ぽつりぽつりと彼が空気の上に落とす言葉たちは、まるで星の瞬きのようだった。それとも流れ星だろうか。
ちらちらと光って、私の耳に流れてきて、私の心を離さない。
「じゃあ、あの星。」
私はすっと空を指指した。
「うん?」
私の指の先を見つめようとして、彼が体勢を変える。少し、私に近づいてくれたような気がした。
「あの星たちは、あなたにそっくり。」
指を指すのをやめて、私は彼の方を見た。
彼はぱちぱちと二度瞬きをしていた。
彼の瞳をよく見ようとしたけれど、星たちはこんな下まで照らしてはくれなかった。
「俺?」
「うん。」
「どの星たち?」
もう一度彼が空を見上げる。
きょろきょろと目で空をなぞるように見つめている。
「この星空全部。」
「・・・ん?」
あなたみたい。
だって、まだまだ未知数で、まだまだ見たいとこがたくさんあるんだもの。
空の上を泳いでいる姿も。私を見てくれるときの瞳の奥の透明さも。
「・・なんでもない!ね、私コーヒー飲みたくなっちゃった。」
「ちょっと、ヒカリ・・。」
「ふふ、また星座教えてくれるときに、言うから。」
「絶対・・・。」
「とは言い切れないなあ。私が全部の星座覚えれたら。」
「先・・長い。」
「失礼だよ、魔法使いさん。」
立ち上がってパンパンと服についた砂を払う。
さあ、彼の家に行こうと思ったとき、突然ぐいっと腕を引っ張られた。
わ、と思うよりも前に、私は彼の腕の中に閉じ込められた。
「ちょっと、魔法使いさん!?」
「言ってくれるまで・・このまま。」
彼の胸に押し付けられて、私は頬が熱くなるのが感じられた。
触れている部分がひどく熱い。茹でりそうだ。
コーヒーのにおいが鼻腔に広がった。
そういえば、来る前にも一緒にコーヒーを飲んだんだっけと、ぼんやりと茹でられた頭の中でそう思った。
びっくりするほど、いきなり強引になった彼に、私はなんて言えば離してくれるのだろうと、またもつれ始めた頭の中で必死に考えた。
そんな私の姿を、空高い場所で浮かんでいる星たちに、笑われているような気がした。
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