辺りが暗くなり、吸い込む空気も冷たくなってからもう随分経つ頃だった。
薄い雲がぴたりと空に貼り付けられ、わずかな光さえ感じられなかった。
小さな懐中電灯をひとつ持って、あたしはそろそろ家に帰ろうと腰をあげた。
タオさんからもらったお古のバケツの中には、本日の出荷物になる魚達が息苦しそうに泳いでいる。
歩を重ねる度に、バケツの中でちゃぷんたぷんと水が揺れた。
水が跳ね踊るごとに、中で泳いでいる魚たちの姿が靄に包まれたようにぼやけて、不安定だった。
これ以上、魚の影がたゆんでしまわないように、あたしは慎重にバケツを運ぼうと思ったけれど、
ざわざわと風に揺れる木々や草の音が不気味に聞こえ、いつもくっついている自分の影が、黒く大きく感じられた。
じとじとしている深海の中で、一人泳いでいるような気分だった。
そんなとき、彼に出会った。
チハヤはこちらに向かってすたすたと歩いてきていた。家に帰る途中なのだろう。
あたしはチハヤが、さあーっと舞う、風のように見えた。それと同時に、どこかに何かを抱えているようにも見えた。
それほどに、彼には夜が似合っていた。
「こんばんわ。」
恐る恐る、私はチハヤに話しかけた。
もしかしたら、夜と同化した彼はあたしに気づいてくれずに、無視されるかもしれないと思ったからだ。
けれども彼は、きちんとあたしがいる方向に顔を向け、すこし驚いた顔をしてから怪訝そうに言った。
「今、帰りかい?」
夜の中で、彼の声は少し低く響いた。
もしかしたら、しんとした空気のせいかもしれない。ひんやりとした風を頬にうけながらあたしはそう思った。
「うん、ちょっと夢中になりすぎちゃって。」
ひょいっと、あたしはバケツを持ち上げた。
「・・・大漁だね。」
「うん。小さいのばっかりだけど、やっぱり釣れると病みつきになっちゃうの。」
「そっか。でもこれ、ほとんど食べれないよ。」
「え!?」
「あ、ごめん訂正。食べれないこともないんだけど、おいしくないやつばっかり。」
「・・・あんまり嬉しくないな。」
「あ、でも、こいつとこいつ、あとこいつなんかは天ぷらとかにするとけっこういけるよ。」
「天ぷら?」
小さく、小首をかしげたあたしの顔を見ながらチハヤも同じように小首をかしげた。
彼の動きに合わせるように、闇色に染まった彼の髪の毛もはらはらと揺れた。
「したことないかい?」
「うん。」
そっか、と相槌をうってチハヤは黙った。
さわさわと冷たい風が頬をすべり、通り抜けていった。二人の沈黙を吸収してしまうような、そんな風だった。
「ねえ。」
あたしの声は、驚くほど小さく、そしてすぐに夜の闇に溶けていってしまった。
けれど溶けきってしまう前に彼の耳には届いたらしく、ぱっと目をあげた。
闇色に染まった彼の髪は、どこかチハヤをチハヤでなくしているような気がして、あたしは今更ながらドキリとした。
「なんだい?」
「・・・なにかあった?」
「え?」
チハヤは少し、目を開いて驚いた表情をした。
あたし自身、自分の口から出てきた言葉にびっくりして少しの間頭の中が真っ白になってしまった。
「ごめんなさい、なんでもないの。ただちょっと、そう思っただけ。」
慌てて付け加えた言葉は、ばらばらと頼りなく、説得力もなかった。
「きっと、夜のせいだよ。」
少し黙った後、チハヤは小さく笑いながらそう言った。
「・・・そうね、今日は冷たい夜だもの。」
「早く帰っておやすみ。」
「そうするわ。」
たぷたぷとバケツの中の水が揺れる音がした。
魚たちはまだ元気に泳いでいるのだろうか。
「ねえ。」
「うん?」
「もしよかったらの話なんだけれど、今度天ぷらの作り方を教えてくれない?」
「・・・機会があったらね。」
「きっとよ。」
「約束はしないけど。まあ、きっとね。」
「おやすみなさい。」
「おやすみ。」
夜はまだ続いていた。
あたしは、チハヤの背中を見つめながら、いつ彼に背を向けて歩き出そうかとぼんやりと考えていた。
そのときのあたしには、まだチハヤのことをよく知りもしなかった。
今考えてみれば、昔も今もあたしはチハヤのことなんて全く全然知らないままだったけれど、でも、本当に彼に対して昔のあたしは無知だった。
だからこそ、彼の少し歪んだ光を放つ瞳の中で、どんな風景が繰り広げられているのか知りたかったのだ。
そして出来ることなら、一緒にその風景を共有したいと思っていた。
なんていう馬鹿げた発想だろう、と今のあたしは昔のあたしを一笑する。けれど、心のどこかで昔のあたしの面影をたどる自分がいる。
どこかで終止符を打ちたいのに、なにも出来ずにあたしはまだ暗闇の中を泳いだままだった。
じくじくと広がっていく、傷を抱えながら今日もあたしはあの日のバケツの中の魚たちのように泳いでいる。
暗闇はどこまでも続いていた。
ゆっくりとまた沈んでいきながら、あたしは彼との思い出にもうすこしだけ浸っていようと、瞼を下ろした。
(思い出の中の彼は、決してあたしを裏切らないのだから。)
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