その日は、朝からざあざあと音を立てて、雨が降っていた。
じめじめとしていて、とてもさわやかな気分にはなれない日だった。
アパートの一室で、その日が休みだったチハヤは、固いベットの中で丸まっていた。
ベットの中にいても、雨粒が地面の上に降り立つ一音一音が耳に滑り込んでくるようだった。
瞼を閉じていると、視界は暗闇の中をさまようはずなのに、チハヤの瞼の裏には一人の少女の顔がいつまでもくっついていた。
はっと、目を見開いてチハヤを見ているアカリの顔。
あの日のことを、チハヤは忘れられなかった。あれが結局、アカリと話した最後の日になってしまった。
アカリの顔が、切なそうだった。悲しそうだった。
そうさせたのは自分だった。
彼女を切り捨てなければ、自分の身体がどうにかなってしまいそうだったのだ。
アカリは、チハヤにとって自分の中のひとつの存在だった。
細胞の中のひとつだった。
細胞分裂の中で突然変異してしまったたったひとつの細胞のように、
異質だけれど、確かに自分の細胞のひとつのような、そんな存在だった。
アカリの身体の一部に触れていることで、自分が生きていることを確かめることが出来た。
決して、離れてはいけない存在だった。
だから、アカリの否定の声は、チハヤにとっては裏切り行為のようなものだった。
特別な異質の細胞が、たったひとつだけ、何億もある細胞とは違う動きをする。
アカリが離れていく。そんなことは耐えられなかった。
だから、自分から離れたのだ。そうすれば、自分自身が傷つくことはないと思っていた。そう、そう思っていたのだ。
アカリの目がチハヤは好きだった。
ぱちりぱちりと、睫毛と瞼が瞳を覆い隠す瞬間の潤った瞳を覗きこむのが好きだった。
彼女の大地を思わせる瞳の中に、チハヤ一人だけが映っているとき、どうしようもない独占力と幸福感が沸いてきたことを覚えている。
なぜ、あのとき、ああしてしまったのか。
チハヤは毎日のように考えていた。
気づくと、なにもない空間に向かって手を伸ばしているときもあった。まるで見えないだけで、そこにアカリがいるかのように。
彼女の声が聞きたかった。
そうすれば、もう一度、自分は答えを出せるような気がした。
突き放すだけの答えではなくて、もっと他の答えが見つかるような気がした。
チハヤは、ベッドで丸まって考えている。
もしかしたら答えは分かっているのかもしれない。けれど、その答えを表現する言葉が見つからなかった。
それはただ、ふわふわとした色合いだけを見せる気体のようなものでしかなかった。
もしかしたら、アカリの声が聞けたら、その答えが言葉として自分の頭の中に宿るかもしれない。
そう、チハヤは思っていた。
トゥルルルルルルルル。
突然電話が鳴り響いた。
チハヤは肩をびくりと弾ませて、電話の方を見た。
一体誰だろうか?そう思いながらチハヤはもそもそとベッドから起き上がった。
その間も、電話は鳴り続けていた。
きっと、キルシュ亭の誰かだろう。
自分に電話してくるのは、かつて一緒に働いていたキルシュ亭の人か、今の師匠くらいだったからだ。
チハヤは急にベッドを立ったせいで襲われる立ちくらみにくらくらしながら、目を瞑ったまま受話器を耳に当てた。
鳴り続いていた呼び出し音が止まると、周りの音が雨音だけになり、急に静かになったような気がした。
「もしもし。」
ぽーんと、自分の声が雨音鳴る部屋に響いた。
自分の声が、まるで異質な存在のように空気に弾かれて、受話器の中に吸い込まれていくのを、チハヤは感じた。
電話の相手はなかなかしゃべり始めなかった。
チハヤはいぶかしげに思いながら口を開いた。
「誰だい?マイ?それとも悪戯電話?」
ぽーんぽーんと弾かれていく声の群れ。自分の一言一言にチハヤは苛立ちを感じ始めた。
こんな気持ちにさせるのは、受話器の先にいる相手がしゃべらないからだ。
雨音の部屋の中で、僕がどんな気持ちで音を紡いでいるか知らないからだ。
「・・・ねえ、いい加減にしてくれる?もう切るから。」
『・・・チハヤ。』
「!」
受話器の向こうから声が返って来た。信じられない声だった。
だって彼女を傷つけたのは自分だ。電話なんてしてくるはずがない。
なのにどうして、耳の向こう、受話器の向こうで、彼女の声が聞こえるのだろうか。
僕は自分の細胞が、うずきだしているような気がした。ふるりと肩が震えた。
「・・・アカリ、かい?」
そろそろと言った言葉は、静かな部屋に響き、受話器に届いた。
空気はチハヤの言葉を弾かず、するすると受話器に吸い込まれていった。
『うん。』
彼女の声が返ってくる。
もっと、彼女の声が聞きたくて。もっと、彼女の声を長く耳の中に響かせておきたくて、
自分の耳の細胞が、活性化しているような気がした。
『チハヤ。』
「うん?」
『いきなり、電話しちゃってごめんね。ただ、あたし分かったの。』
「なにに、だい?」
『ほんとうにいきなりなんだけど。まだ自分の気持ちに追いつかないのだけれど。でも、どうしてもあなたと話したかった。
チハヤの声を聞いて、自分の気持ちを整理させたい、と思ったの。すごく勝手なことだけれど。』
僕も、アカリの声が聞きたかった。
そう言おうと思ったけど、思いとどまった。そんなこという資格が、僕にはなかったからだ。
だからただ、アカリの声を聞いていた。彼女の言葉一言一言、一音一音に耳を傾けて浸っていたかった。
「話してくれるかい?」
受話器の向こうで、彼女が頷いたような気がした。
見えもしないのに。ああ、本当に末期だ。でも、その証明をするように、アカリの声がするすると耳に届き始めた。
『あたしは、あなたへの気持ちに溺れていたんだと思う。』
『チハヤ。』
『本当に、本当に、あなたのことが好きだった。大好きだった。好きで好きでたまらなかった。』
僕だって、そうだったよ。
そう言いたかった。でも、言えなかった。
今はただ、アカリの声に耳を澄ませることしかできなかった。
『あなたと、いっそのことならひとつになってしまいたかった。私はね、チハヤ。耳も目も鼻も口も、手も足も何もいらないの。
ただ、チハヤの存在にすこしでもくっつくことができるなら、それだけでよかった。それ以上なにもいらなかった。そう思ってたの。』
「・・・・・・。」
『そう思ってたわ。でも、それは違う。そう思ってしまったからあたしたちは、別れる道を選んだんだって今なら分かる。』
『あたしたち、お互いに依存してしまったわ。
だから駄目なの。自分の足で立たなくなってしまったから。』
「そうだね。・・・うん、そうかもしれない。」
彼女の言葉がひとつまたひとつ、頭の中で繰り返された。
ぷつりぷつりと細胞が離れていく。そしてまたもう一度、形成されていく。
彼女の言葉はまるで細胞の死滅と細胞分裂のふたつを掛け合わされたような働きがあった。
いつの間にか、雨音がしなくなっていた。チハヤの耳に滑り込んでくるのは、アカリの声だけになっていた。
『覚えてる?初めてまともな会話をした夜の湖でのこと。あたしは魚を釣っていて、チハヤは仕事の帰りだったわ。』
「よく、覚えてるよ。結局天ぷらにはならなかったんだよね?あの魚たちは。」
『うん。・・・・あたしは、あの魚たちの死骸みたいだった。』
『どういう意味だい?』
『ねえ、チハヤ。あたしたちひとつにはなれないわ。』
ぽーんと放たれた一言。
耳に届くその瞬間に、何かが変わっていくような音が聞こえた。
もしかしたらそれは細胞が死んでいく最後の声だったのかもしれない。
「・・・・・分かってる。」
アカリの言葉は、実に明快で、真実で、子供でも分かるような答えだった。
けれど、その答えに溺れかけていた二人は気づかなかった。気づけなかった。
『・・・そうね、離れて、今ならやっと分かることができた。昔のあたしたちには分かってなかったことが。』
「ねえ、アカリ。」
『うん?』
「いま、僕のことどう思ってる?」
『・・・・・・・・・・。』
『・・・・・チハヤは?・・・チハヤはどう思ってるの?』
逆に問われた質問に、チハヤは一瞬本当のことを話してもいいのか分からなくなった。
別れを切り出したのは自分自身だった。そんな自分がどうして本当の気持ちを打ち明けることが出来るだろう?
けれど、その細胞はすべて死んでしまった。
今残っているのは、自分の気持ちに正直になりたい気持ちと、アカリに伝えたいことがある気持ちだけだった。
ぷくぷくと細胞分裂と新しい細胞が産まれる音が聞こえたような気がした。
「僕は、アカリにひどいことをいった。だから本当はこんなこといえる身分じゃないんだ。
本当に身勝手なことだと自分でも分かってる。でも、言うよ。いい?」
『うん。聞かせて。』
一瞬、目を瞑る。
ぷくぷくという音が頭の中で響いている。まだ、続いている。
「・・・・今は、きみに会いたくてたまらない。
けれど分からないんだ。アカリに会って、自分の気持ちがどう動くのか。
また、きっと前みたいに戻ってしまうんじゃあないかって、考える。」
『チハヤ・・。あたしも一緒だよ。まだ、自信を持って、チハヤのことを好きと言えない。なんていったらいいのか分からない。
でもきっと、また出会ったときに、前みたいにはならないと思う。・・・だって、気づくことができたもの。』
「・・・そうだね。うん。そう願うよ。」
『うん。』
目を瞑る。彼女の姿が瞼の裏に浮かんだ。
アカリは泣いてはいなかった。ちょっと眉ねをよせて泣きそうだけれど、でも確かに笑っていた。
目を開ける。彼女の瞳を思い出しながら。
遠く離れた島で今、彼女は瞳の裏で自分の姿を思い浮かべてくれているのだろうか。
「ねえ、アカリ。」
『うん。』
「もし、またワッフル島で会うとき、かならず知らせるから、その時は魚を用意して待っててよ。」
『・・・・どうして?』
「天ぷら。おいしいの作ってあげるからさ。今よりもっと、腕をあげてね。」
くすくすと受話器越しで彼女の笑い声が聞こえてきた。
笑った。
チハヤもくすりと笑った。久しぶりに笑えたような気がした。
電話越しに、遠く離れたふたりの笑い声が重なって、ひとつになっていた。
耳にじんわりと伝わる熱を感じながら、二人とも見えない相手を思って、瞳をつぶった。
睫毛が、綺麗に放物線を描いた。
そして、彼、または彼女の瞳をまぶたが覆った。
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