ぱちっと、暖炉から薪が鳴いた音がして、あたしは読んでいた本から目を離した。

壁にかけられた時計を見やると、もう次の日になっていた。


ぽかぽかと暖かい部屋の中で、左手から伝わってくる熱が一番温かかったのに、

ずっと握られていた左手の指先は、既に感覚がなくなっていた。



慣れたものだからと右手だけで読んでいたのだが、栞を挟みたかったので、あたしは軽く手を振ってそれを彼に知らせた。

するとチハヤは、するりとあたしの左手を掴んでいた手を、あたしの腰に回してきた。

それはあまりにもあっけなくて、きちんと確かめなければ、チハヤの熱が移ったのが分からないほど自然な行為だった。


あたしは、読み終わったページに栞を挟んで本を閉じた。パタンという音がやけに大きく響いた。



隣であたしの肩に頭を置いていたチハヤが、むくりと頭を持ち上げた。

そして、眠たそうに睫を震わせると、ゆっくりと瞬きをした。



「もう寝るよ。」

瞼の下で見え隠れしている瞳が、ゆらりと揺れたのと同時に、チハヤは口を開いた。


「そうだね。」


あたしも同意するように一つ瞬きをした。

その後で、彼のように綺麗な瞬きは出来ていないだろうと思い、少し悔しい気分になった。


美しい弧を描き出しながら、チハヤはその紫の瞳を瞼の裏に隠す。

パチリと睫がそろった音が聞こえてきそうなくらい、いつも正確で、間違いがない動きだった。



チハヤは一度、あたしの手を見つめた。

しっかりと、チハヤの右手と結ばれているあたしの左手は、すこし赤くなっている。




「大丈夫だよ。ずっと、チハヤが眠っても離さないから。」


言葉を噛み砕くように、ゆっくりとあたしは言った。

そして、チハヤを安心させるように、左手を軽くゆすって、存在を確かめさせた。

チハヤは満足そうに緩く微笑むと、頬をクッションにうずめて、あたしの手をくいっとひっぱった。




二人でいるとき、チハヤはいつもあたしの身体のどこかに触れていた。

それは、チハヤのクセだった。


指や足や背中、腰や肩。首だったり、耳だったりするときもある。

それは強引でも遠慮がちでもなく、そうしていることが当然であるかのように、あたしの身体にぴったりとおさまった。

まるで、鍵穴に吸い込まれる鍵のようにそれは正確で、チハヤにとって重要な行為だった。




一番多いのは手だ。


指紋と指紋をぴたりとくっつけてしまうように、慎重で完璧に結ぶときもあれば、小指と小指を軽くひっかけているだけの時もあった。

チハヤのすらりと伸びた指が、あたしの手をいとも簡単に掴む時、

どの身体の部分よりも、あたしは一番すんなりと受け入れられることができた。





『こうしてないと不安になるから。』


初めて、チハヤが自分のクセをあたしに披露したとき、何気なく聞いた質問の答えがそれだった。

あまりにもすんなりと言われたので、素直に頷いてしまえばその話はおしまいだった。

けれど、あたしはもっとチハヤに近づきたかったから、急かすように口を開いた。


『どうして?』



チハヤは、ひとつ瞬きをした。やはり、美しい動作だった。

あたしが初めて彼に惹かれたのは、この瞬きだったのかもしれないと思うほど、彼の瞬きは魅力的だった。



『空気がなくなった時みたいになるんだ。・・・水中の中にいるっていう方が近いかもしれない。

早く酸素を取り入れなくちゃって、あせったり不安になったり、とにかくひどい気分になる。』


そういうと、チハヤはあたしの腰を引き寄せて、肩に額をこつんと置いた。

あたしは、その時はまだチハヤのクセに慣れていなくて、戸惑いながら彼の耳の後ろに手を差し入れた。

チハヤの細い髪の毛が指に絡まった。あたしは、ゆっくりと手を上下に動かした。


確か、穏やかな午後のことだったと思う。

その日のことを思い出す度に、あたしはチハヤの揺れた瞳を思い出した。






「おやすみ。」


「うん。


瞼の上に瞳が被さり、チハヤが眠りにつくまでが、あまりにもあっさりと過ぎてしまったので、私は戸惑いを隠せなかった。

あんなにも素早く、チハヤの瞳が閉じられてしまったことを、あたしは少し残念に思った。



けれど、めったに見れないチハヤの寝顔見たさに、あたしは残念さを胸の奥に押し込んで、ぐいっと顔を近づけた。


チハヤの白い瞼が、鮮やかに、瞳に覆い被さっている姿がどこか神秘的だった。

透き通るような色だった。今にも、彼の瞳の色が透けて見えるのではないかと思うくらい。

でもそれは、決して病的なものではなく、はっと息を止めるような美しい瞼だった。



チハヤの、瞳を閉じた瞼の輪郭と薄い唇の曲線は、

時々見せる鋭さや固さをすべて仕舞い込んで、丸まった感情とあどけなさだけを残していた。


今なら、チハヤの幼い頃を思い浮かべれるような気がして、あたしは思わず彼の手に、結ばれていないほうの手を伸ばした。



あと少しでチハヤの頬に触れるというころに、突然チハヤの片手があたしの手を掴んだ。


驚いて、チハヤを見たら、瞼はあいかわらず瞳を伏せたままで、小さな寝息は一つも乱れていなかった。

ただ、結ばれた両の手のひらを見ると、あたしはなんだかたまらなくなって、チハヤの隣に彼と同じように寝転んだ。



チハヤの透明な瞼が開かないように、そっと、ゆっくりと、チハヤの胸に頬をうずめた。

とくん、とくんと、頬を伝って、あたしの耳に震えながら届くチハヤの心臓の音が、あたしの心臓の音に重なるように、息をひそめた。



きっとチハヤのクセが、あたしにもうつってきているのだ。

こんなにも触れ合っていたら、いつか二人の身体が、どちらかの身体に溶けていってしまうんじゃないかって思う時がある。


そうなったら、どんなに幸せだろう。




彼のクセを受け止めるのは、あたしだけだった。

ユバ先生でも、マイでもない。あたしよりも長い付き合いをしているキルシュ亭の人ではなくて、チハヤはあたしを選んでくれた。

その行為を、あたしが勝手に彼のクセだと名づけただけで、

彼は料理をしている時、あたしと一緒にいない時は、誰に触れていなくても平気だった。


チハヤのクセは、あたしだけに施される儀式なのだ。


そう信じている。



チハヤの傍にいられればいい。

チハヤのクセが、ずっと続いていればいい。

そうすれば、あたしも独りきりになってしまうことはないのだから。




とくん、とくん。


チハヤの心臓の音がこんなにも近くに聞けることが出来るのは、今はあたしだけだ。

もしも重なったら、その時こそ、あたし達はひとつになれるだろうか。



うっとりとするような理想を胸に抱いて、あたしも瞳を閉じた。


チハヤの胸に頬を押し付けて、あたしだけが分けてもらえるチハヤの体温にくるまれて。

耳に届く微かな寝息と心臓の音に、この上なく幸せな気分に浸りながら、あたしも眠りの世界に落ちていった。







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