テーブルの前に広げた料理の本は、ほとんどがチハヤのものだった。
難しい名前や作り方が載っているものは、私は半場それを料理ではなくて、インテリアのようなものとして目を通していた。
華やかしい彩りのものや、ちょこんとお皿にのっているもの。
どれも、私の目には硝子細工のようにキラキラとした、どこか遠い世界にある儚いもののように映った。
ちょんと、つまめそうでつまめないそれらは、私の手の中で、つんとした表情ですましているようにも見えた。
「なに読んでるの?」
すっとテーブルの上でにらめっこをしていたせいか、アイロンがけをしていたチハヤがこちらにやってきて、そう尋ねた。
パリっとした白いシャツが、チハヤの手元にある。
チハヤは仕事場のシャツだけは、かならず自分でアイロンがけをしている。そういうところがプロだなあって関心する。
「ちょっと整理してたの。」
「僕の本ばっかりだね。」
「チハヤが持ってきすぎなの。少しは持って帰る?」
私は見ていた本と共に、チハヤの本をずいっとチハヤの方へ押しやった。
私の前にあった本はほとんど消えて、残ったのが私の本なのだけれど、たったの二冊しかなかった。
「冗談。夏が終わったらどうせこっちに来るんだから。このままでいいじゃん。」
「そりゃあそうだけど・・。」
今は春の月だって分かって言ってる?と私が口をとがらせて言うと、チハヤは笑って受け流しただけで、
目の前の料理の本へと目を移してしまった。
わたしはおとなしくなってしまった隣に少し肩を落として、自分の本を取るとページを開いた。
自分の本だから、名前も知っているし簡単そうな料理ばかりが並んでいた。
幼い頃からあった本だから、すこし黄ばんでいる。
昔は好きな男の子にクッキーとか作ってたっけ。結局、失敗して渡せなかったのだけれど。
「なにか料理作るのかい?」
しばらくしてから、チハヤはふっと私が読んでいた本の方を覗きながら言った。
「私、料理あんまり作れないし・・・。」
「うん、そうだね。」
「・・・・・・。」
「ん?」
「フォローっていうのがないの?」
「えー。」
私がはたくふりをしたら、チハヤは乾いた声で笑った。
「じゃあ、どの料理だったら作れる?」
「スクランブルエッグと目玉焼きくらいなら。」
私もこっそりとチハヤが読んでいたページの方を見ると、
シュークリームが山積みされた、もうほとんど芸術に近いくらい綺麗で均整された料理の写真があった。
ふわふわとした小さなシュークリームたちが、チハヤの髪の毛みたいだった。
今度、これをおやつに作ってほしいなあって、心の中でメモを取った。
「じゃあ、これは?」
私の持っていた本をパラパラとめくって、チハヤはひとつの料理を指差した。
「あ、かき混ぜるとこまでならやったことあるわ。」
「かき混ぜるとこまで?」
「うん、友達が焼いてくれたの。」
「この島に来る前の?」
「うん、そう。」
「・・・女?」
おもわず、ぷっと笑ってしまった。
「・・なんで笑うのさ。」
「だって。」
ちょっと、可愛いって思ったからです。なんていったら口をきいてもらえなくなりそうだったから、
わたしは肩を震わせて笑いを堪えると、悪戯っぽくチハヤの方を見た。
「男の子って言ったら?」
「・・・料理教えてあげない。」
「え、ジョークだよ!女のお友達です。おんなの!」
私が慌てて言うと、向こうを向いていたチハヤがくるりとこっちを見た。
「なら、合格。教えるよ。」
ホットケーキミックスの粉と卵一個分。180ccの牛乳を入れて書き舞えるという作業は、ひどくあっさりと済んでしまった。
小さな頃に友達と作った時はあんなに長く感じた時間は、大人になった今、
砂時計の砂がさらさらとこぼれていくように、あっと間に流れていった。
チハヤが的確に、絶妙なタイミングで卵をいれ、続けて牛乳を注いでくれたからかもしれない。
わたしはただ、銀色に輝くボールの中で、
だんだんともったりとしていくホットケーキの種を、かき混ぜているだけでよかったのだ。
「後は焼くだけだね。出来そう?」
「うーん。・・・コツとかってある?」
私はボールの中にお玉を入れて、ちょいっとすくってみた。
ホットケーキの種は、ゆっくりでも速くもなく、とろとろと銀色のボールの中に戻っていった。
もう一度すくってみようとした私の手の中から、チハヤはボールとお玉を取り上げると、
一回かき混ぜてからお玉で種をすくいあげた。
「だいたい、お玉一杯分ぐらいがちょうどいい具合かな。」
そう言うとチハヤは、お玉をそのまま私に渡した。
促されるままに私は、温まったフライパンの中に、ホットケーキの種を上から垂らしていった。
お玉からフライパンの上にこぼれ出た種は、綺麗に円を描いて大きくなっていった。
ジュっと初めに鳴いただけで、種はおとなしくフライパンの真ん中に鎮座している。
「火はだいたい弱火くらい。中までしっかり焼いて、でも黄金色になるようにね。」
「うん。」
私は、何も変化のないように思えるホットケーキの種を見つめながら、相槌をうった。
小さな頃の記憶なんて曖昧で、友達がどのようにしてホットケーキを焼き上げたのか、すでに記憶の隅に追いやられていた。
「初めて僕が料理したのも、ホットケーキだったよ。」
「そうなの?」
「うん。初めて焼いた一枚は真っ黒になってね。でも中は生焼けで、散々だった。」
たんたんと話すチハヤの口調が気になって、その時私は初めてホットケーキから目を離した。
「・・・チハヤ?」
「なんでもない。ちょっと、色々と思い出してボーっとしてた。」
くしゃっと小さく笑うチハヤのを見つめながら、
私はチハヤの過去を、彼が幼かった頃を頭に思い描こうとした。
くしゃくしゃの明るいブラウンの髪の毛も、紫の瞳も、女の子みたいな綺麗な肌も。
小さなチハヤの心の中を、
透明に透き通っていて、小さく震えているようなチハヤの心の中を、
少しだけでもいいから、私はくみ上げてそっと撫でてあげたかった。
けれど、目の上に浮かんだのは、真っ黒になってしまった生焼けのホットケーキだけだった。
「あ、見てアカリ。こんな風に表面にプツプツって泡みたいなのが出てきたらひっくり返すんだよ。」
チハヤの言葉に、私は慌てて視線をホットケーキに戻すと、フライ返しでえいやとホットケーキをひっくり返した。
途中、フライ返しが生地に引っかかって、裏返したら小麦色の表面に皺が寄ってしまっていた。
「わ、やっちゃった。」
私はフライ返しで皺が出来てしまった表面を、ちょいっと突っついてみた。
「アカリ。穴が空くからやめたほうがいいよ。」
「うん。・・ちょっと残念。」
もう片面も焼きあがると、皺を作ったホットケーキをお皿にのせた。
私が焼いたとは思えないほどそれは綺麗な小麦色に焼けていて、
二本の皺が唯一の私が焼いた印のように表面を横切っていた。
チハヤはさっそくフォークで、私が焼いたホットケーキの端っこを切って口に入れた。
私はドキドキする暇もなく、すばやくチハヤの口に放り込まれたホットケーキの一切れに目を移した。
「初めてにしては上出来。」
「ほんとに?」
「うん、おいしいよ。」
くしゃりと笑ったチハヤにつられて、私もにこりと笑った。
チハヤの笑顔の向こうに、小さなチハヤがいるような気がした。
「ありがとう。」
くしゃくしゃの明るい髪の毛。紫の瞳。女の子のような綺麗な肌。
幼いチハヤを、私は知るはずもないのだけれど。
今は真っ黒で生焼けのホットケーキの姿も頭の隅に追いやられていた。
私は小さなチハヤにも、笑顔が届くように微笑んだ。
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