「泣くな。」


彼はそう、強く言ったつもりだった。


隣で、母親を見失った子猫のように縮こまっている小さな肩に向かって、元気づけるつもりで紡いだ言葉だった。

いや、正しく言うと、彼は自分に向けての言葉を、上手く彼女のための言葉にすり替えただけかもしれない。

けれどそれは、彼女の耳にやっと届くほどのかすり声にしかならなかった。


小さく肩を震わせて、彼女はこくりと頷いた。顔は見えない。けれど、彼女の目元も頬も真っ赤に染まってしまっているのだろう。


自分のかすれ声が、空気に触れた瞬間、彼は一瞬、ひどく後悔した。

彼女のためにいった言葉が、こんなにも弱々しい声にしかならないのなら、いっそ黙っていればよかったのだから。

けれども、そんな声にでさえ、気持ちがいっぱいいっぱいなのに、彼女はこくりと頷いてくれた。

それだけで、彼はとても救われた気持ちになった。





海岸は、触れると爆発してしまいそうな、妙な期待で満ち溢れているようだった。

すっかり暗くなった中で、白い砂浜が薄く浮かびあがり、

ちらちらと月明かりによって光る黒い海とあいまいなコントラストを作り出していた。


一人、また一人と海岸に集まってくる人々の、

小さかったり大きかったり、低かったり高かったりする声が、うねるようにさざめいていて、

耳に飛び込んでくる様々な色と雰囲気に、不思議と高まるはずがないと思っていた彼の気持ちも高揚しつつあった。

ぐずっ、と鼻をすする彼女もこの独特な雰囲気に気づいたのか、ちょっとだけ顔をあげた。


薄暗い中でも、彼女の鼻頭が真っ赤に染まっているのが見てとれた。

泣いて、泣いて、身体中の水分をほとんど搾り出してしまったのか、彼女の身体はすこし萎んでしまった花のようにも見えた。



「なんとなく、もう駄目かなって思っていたの。お互い、どこか線を引くようになっちゃったし。」

彼女は、どこか投げやりに言葉を吐き出した。


皺んだ花びらが、しゃらしゃらと散っていってしまうような声だった。

地面に落ちてしまった花びらを一枚一枚、拾って助けてやりたくなるような声だった


「でも、でもね。」

彼女の声がしゃらりと落ちていく。

また一枚、花びらがはがれてゆくような気持ちになった。彼は一瞬、ぎゅっと目を瞑った。



「なにも、こんな日に言わなくたっていいのにね。」


ぽたぽたと、彼女の目から落ちる涙の音が聞こえてきそうだった。

瞼の裏によぎる、明るく活発な彼女の印象とはまるで反対で、けれど隣にいる彼女は、

好きな人が出来たと照れ笑いを浮かべながら彼に報告してきたときの彼女と同じ人物なのだ。

そして、彼がずっと好きだと想い続けていた、彼女なのだ。



今、手を伸ばして彼女の方に触れたらどうなるだろうかと、彼は考えた。

いつもならかならず、手を伸ばした。泣きそうに萎んでしまった花を元気づけるために、わしゃわしゃと頭を撫でてやった。

そうしたら彼女が、犬みたいな扱いをしないで!とちょっと怒りながらいうのだ。それを自分は笑ってやる。つられて彼女も笑う。

自分たちの関係は、そうあるべきだったのだ。


なのに、今は。

離れたら壊れてしまいそうだ。そう、彼は思った。

もし、自分の指が少しでも彼女の型を掠めたら、今造りだしている二人の関係を簡単に崩してしまうような気がして、彼は恐ろしかったのだ。



だから彼は黙って、海を眺めている彼女の隣に座っていた。

彼女も何も言わず、瞼の裏に景色を焼き付けているようだった。


彼は、この曖昧な空気をどのように変えたらいいのか分からずにいた。

ただ、萎んでしまった花に水を与えることが出来るのは、悔しいけれど自分ではないということだけ分かっていた。



「花火・・・・始まるね。」


最初に、声を出したのは彼女の方だった。

鼻声で、少しかすれている声は、小さいけれど、辺りのざわめきに消え入らず、きちんと彼の耳に届いた。

そう言われて、改めて回りを見渡すと、人々が時計を気にしながら空をうかがい始めていた。


「ああ、そうだな。」

彼は短く相槌を打った。彼の声は、今度はかすれずに空気に響いた。


「・・なんか、ごめん。せっかくの花火大会なのに。わたしなんかに付き合わせて。」


ごしごしと、手で目元を擦りながら彼女は言った。きっと真っ赤になってしまっている。


「気にすることじゃない。それに、俺はいたくてここにいるんだ。」

自分の左手を軽く握ったり開いたりしながら、彼は代わりに言葉を紡いだ。

少しだけ、声に荒っぽさが混ざっているような気がした。



「オセは、優しすぎるよ。」

「そんなことない。」


「分かってないなあ。」

でも、そこがいいんだけどね、と彼女は言った。

少し笑っているような気がした。もしかしたら、もう一度、前のようなやり取りが出来るかもしれない。

一瞬よぎった考えと共に、彼は自分の左手を握ったり開いたりした。瞼の裏に、満開の花びらのような彼女の笑顔が焼きついている。









「あ。」



彼女は、小さく声を出した。

その声は、ひゅるると元気よく鳴きながら昇っていく蕾たちの声に消されてしまった。

すこしたってから、大きく満開を知らせる音が鳴り響いた。それとともに、海辺では小さくない歓声があがり始める。


「始まったな。」

彼が言う声に、彼女は頷いた。

涙でぱりぱりに固くなった頬をほぐすように、小さく笑った。


「そうだね、花火だ。」



「なあ、俺なんかと一緒に見てよかったのか?」

「どういうこと?」

彼女はわざとらしく首をひねった。自分でも笑ってしまうような演技だった。


本当なら、彼女はこの花火を一緒に見ているのは違う相手だった。

一緒に見ようと約束したのに、それを照れながらも報告した相手と、彼女は今日共に花火を見ているのだ。



「だって、お前は。」


まだ、好きなんだろ?

そう言おうとして、彼は口をつぐんだ。彼女のためでも、誰のためでもなく、自分のために彼は口をつぐんだ。


けれど彼女には、彼が言わんとしていたことがはっきりと分かっていた。

そんなわけないじゃない。

そう笑って一蹴してしまいたかったのに、出来なかった。

それが出来るくらいなら、初めから彼女はここで肩を縮ませて泣くことも、彼と肩を並べていることもなかっただろう。


もう、とうに泣いて泣いて枯れてしまったのだと思っていた。

目を閉じなくても浮かんでくる、大好きだった人の姿や、声、たくさんのやり取り、

その全部を思い出して、泣いて、また引き出して、泣いて。散々、彼につき合わせてしまったのに、やっぱりまだ目は潤んできてしまった。


彼女は緩み始める自分の涙腺を引き締めるために、ぐいっと空を見上げた。

もう、先ほどまで空を彩っていた華やかな花たちは、とおに散ってしまっていた。



「オセ。」


声を出したとき、自分の声がどうしてこんな涙声なのだろうと彼女は思った。

「うん?」


隣の大きな肩の上から、低い声が耳に届く。心まで、あったかくしてくれる声。

がっしりとした肩も、明るい笑い声も、面倒見のいい正確も。

彼のすべてが、彼女を安心させてくれるのだった。



けれど、彼女は彼を選ばなかった。選べなかった。

どうして彼を好きになれなかったのだろう。そう思うのは、またどこか違う気がした。


彼女は、彼のことが好きだ。けれど、恋愛や友情の中に押し込めてしまうような、好きという言葉で好きなのではなかった。

もっと彼に対しての形容詞は違うものがあるような気がした。父のような、兄のような、恋人のような。

そのすべてがそうであり、そのすべてが異なった存在だったのだ。彼女にとっての彼は。



「なんでもない。」


自分でも、言い表せない彼への感情を、彼女は小さくまとめるようとするように、言葉を紡いだ。

彼。恋人。そして自分。渦巻くように交差する様々な思いをすべて閉じ込めてしまいたかった。

そうすることしか、出来なかった。



「アカリ。」


「・・・ん。」


ぽんと、彼の大きな手が彼女の頭を覆った。

不器用にくしゃくしゃと頭を撫でられる。いつもするよりもひどく雑で、そしてひどく温かかった。



「もう、何も言わなくていいんだ。」


「・・・ありがとう。」



響く。溶ける。消えていく。

彼の声も自分の声も、吸い込まれていく。



ぽっかりと空いてしまった、自分達の関係の中に、彼女の声は吸い込まれるようにして、消えていった。

ああ、もう私達は昔みたいになれないんだね。と彼女はなんとなく思った。





「泣くな。」



彼の声が、耳に響く。


自分でも気づかないうちに、彼女は涙を流していたことに気づいた。

ゆっくりと頬を伝う涙を、手の甲でふき取ってから、彼女はちょっとだけ笑おうとしたけれど、失敗した笑顔になった。







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