一体いつからだったか。


もう細かくは覚えていないけれど、きっとコーヒー豆がなる木を育て始めた時からだったと思う。

私が町から少しだけ外れた、魔法使いの家を訪れるようになったのは。



はじめは、ただの気まぐれでしかなかったのだ。

町はずれの魔法使いとは、魔女を元に戻すために、一時お世話になったことがあった。

そのお礼もかねて、初めて育てたコーヒー豆を彼の元に持っていったのだ。



「魔法使いさん。」


夕日が差す窓からの光だけでは部屋全体を明るくすることは難しく、部屋の中は全体的にぼんやりとしていた。

自分の部屋だったら、早く電気をつけて明るい空間を作り出したいと思うのだろうけれど、不思議と彼の部屋ではそう思わなかった。

むしろ、一時の限られた時間の中でしか作り出されない、独特のぼんやりとした部屋の雰囲気が、彼自身によく似合っていた。


「コーヒー入ったよ。」

水晶玉を見ていた彼が、ゆっくりと顔をあげた。

透明に光る水晶玉が、そのまま彼の瞳に乗り移ってしまったのかと思うくらい、彼の瞳の中には、ちらちらと無数の光が踊っていた。



「ありがと…。」


「今日のコーヒーはね、いい具合に粉引きができたから、きっととてもおいしいと思うの。」


「うん・・・。そんな風に、見える。」


彼は、手に持っていた万年筆を置いて、私からコーヒーカップを受け取ると、目を瞑ってカップの湯気に鼻をあてた。


「いい・・匂いだ。」

「ふふ、よかった。」


彼は、ことりとコーヒーカップを机の上に置いた。ちょっと覚まさないと飲まないのだ。

そういうちょっとした彼のしぐさも、ここに通うようになってから知ったことだった。


初め、この町に来たときは魔法使いがいると知って、

どれくらいびっくりし、またどれくらいわくわくしたか、もう遠い記憶のように古い気持ちだった。

今では、彼が私の中で一番近い存在になっている。




「魔法使いって聞いた時は、もっとなんでもかんでも魔法でやっちゃうんだと思ってたの。」


私は、ちょっと笑いながら言った。

なんだかそんな風に、ひょいひょいと魔法を使う彼の姿を想像したら、予想以上に可笑しかったのだ。

彼は、正真正銘の魔法使いだというのに。


星を眺めているばかりだからなのか、

彼の瞳の中は、ちらちらと無数の光がちりばめられているかのように、繊細でとても美しかった。


それとも魔法使いは、みんなこんな瞳を持っているのかなと、

暗い森の奥に住んでいる、もう一人の魔法が使える少女の姿を思い浮かべながら、私は思った。




「そんな、必要がない・・・。」

「必要?」



「例えば、コーヒーを一杯入れるときとか…、

魔法を使って入れたら普段よりもっとおいしいコーヒーが作れるかもしれない・・・。

でも…、手をかけて煎れたコーヒーの方がおいしく感じることとか。

魔法が必要なことなんて…実はほんとうに少ないんだ。」




「でもカエルになった子を元に戻せたり、そういうことが出来るのは、魔法を使うあなたのような人だけだわ。」


彼は私の方を見て、小さく笑った。

そしてコーヒーカップを持ち上げて、口元に寄せた。

彼が見せる姿の中で、私が彼のことを綺麗だと思う仕種の一つだ。

この仕種を見たくて、私は彼にコーヒーを煎れてあげているのかもしれない。


私がそんなことを思いながら、彼を見ていると、彼は視線をカップから私に向けた。

二つの瞳の色がそれぞれ違うせいか、私は二人の彼から見つめられているような錯覚を味わった。

どちらの瞳の色も彼自身の色だというのに、おかしな話だ。


彼は微笑みながら、(それだけで私をドキリとさせるには十分な効果だった)彼は私のためだけに言の葉を紡いでくれた。



「ヒカリが煎れてくれた、コーヒーの方が、おいしいよ…。魔法より。」


私の耳の中で、ぱちんと音がなったような気がした。

彼の声は、いつものように小さく、本当につぶやくような声だったのに、

私の耳の中に小さな花火のようにパチパチと響いてきた。


私は驚いて、目をぱちぱちさせて彼の方を見た。

そんな私を見て、彼はまた小さく笑った。

彼が口元に寄せているコーヒーカップの湯気のせいで、彼の瞳の星の数を数えることはできなかった。




「なに・・?俺の目に、なにかついてるの・・・?」


彼がいつもより幾分か近い場所で、私の顔を覗き込んできた。

そのおかげで私はいつもより近くで、彼の瞳の中で無数にちらちらと光っている光を見ることができた。



「・・・うん。星がたくさん。」


「・・なにそれ?」

「まだ、夜になってないよ・・・。」

彼は、少し困惑しながら私の瞳を覗き込んだ。

彼の声を、私の耳はすべて残りなく拾ってくれた。とても安心できる。やわらかな声だった。



「でも、見えるの。」


「ヒカリは、・・・たまにおもしろいことを、言うよね。」

「だってほんとうのことなんだもの。」


彼は、顎に手をおいてしばらく考えごとをしているようだったけれど、

ぽんとなにかを閃いたかのように、私に向かって話しかけてきた。



「ヒカリ・・・。目、瞑って?」

「どうして?」

「おまじない・・してあげる。」


「それって、魔法?」

「違う・・。もっと単純で、簡単なもの・・・。」



私はいぶかしく思いながらも、彼に言われた通りに瞼を閉じた。

目の前にいた彼も、独特な雰囲気をもつ部屋も消え、目の前は真っ暗になった。


「瞑ったよ。」


「・・・うん。じゃあ、・・・はい。」


頬に触れた、私じゃない手。ちょっと冷たかったけれどさらりとしていて気持ちよかった。

その冷たさとは反対に、一瞬まぶたに柔らかな温もりがくっついて、そしてすぐに離れていった。


「もう、いいよ・・。」


「魔法使いさん、今の・・。」


ぽかんとしている私をその場において、彼はすたすたと大きな望遠鏡がある二階への階段の方へ歩いていっていた。

ぱちぱちと瞬きをしてみる。

さらりとした彼の手の感触も、瞼に残る温もりもまだ私の皮膚の上に残っていた。





「ねえ、ヒカリもこっち、おいでよ・・・。もうすぐ、一番星が見れるから・・・。」


こくんと頷いて、少し小走りに彼の元に行った。

彼は何事もなかったかのように、望遠鏡をさらりとなでると、微調整をし始めた。




「ねえ、魔法使いさん。」

「・・・うん?」




「・・・さっきのなんだけど。なんの、おまじない?」


「・・・ヒカリには、教えない・・。」


「・・・・・・・・・・。」


「・・・。じゃあ、一番星・・俺より先に見つけられたら、教えてあげる・・。」

「そんなの勝てっこないもん。」


「わかんないよ。」



くすりと彼が笑った。

その笑い方がいつもの彼の笑い方とはちょっと違っていて、ひどく新鮮だった。

笑っている彼の瞳を見て、ふっと私はあることに気づいた。



「あ・・・私の勝ち。」


「・・?どうして?」


ぱちぱちと彼が瞬きをする。

いつもぼんやりと何かを見つめている彼にしては、珍しい行動だった。

今日は彼のいつもとは違う行動や表情が見える。


私はなんだか可笑しくなってきて、ちょいちょいと彼を呼んだ。

もしかしたら、もう空には星たちが浮かび始めているかもしれない。

彼ならそれくらいきちんと知っていると思うのだけれど、それでも私の方に興味をもってくれることが、嬉しかった。



彼の耳が私の顔の前にくる。

白っぽい髪から覗く耳が、ほんのすこしだけ待ちきれないとでもいうように小さく揺れているような気がして、また可笑しくなった。

ふっと彼の耳に向かって、私は勝ち誇った声で小さく、彼にだけ届く声で言葉を紡いだ。






「だってさっきから私、星が見えるって言ってたじゃない。」





次はどんな顔をして彼は私を見てくるのだろう。

彼の瞳に映る星たちの光を想像しながら、私はにっこりと微笑んだ。



いつの間にか、私の瞼と頬からは彼の温もりが消えてしまっていたけれど、







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