万年筆を持つ手が震えた。
そのせいで、ぽたりと、鈍い銀色をした万年筆の口から涎が垂れてしまった。
いくつかの言葉を交わし、躍らせていた紙の上で、その涎は綺麗な月をかたどった。
ちょうどそのときは、最近食べたメニューをずらずらと二人で並べていたのだが、
その真っ黒な月は、ちょうど『アップルパイ』と彼が斜めに走り書きした文字の真上にかかっていた。
かろうじて、アップルパイと書かれていたのだろうと思われるような形をした、そのインクの染みを私は手でなぞりながら見つめていた。
それは、ただのインクの染みにも見えるし、月食にも見える。ぱっと見れば、乾いた血の痕にだって見えた。
けれど私には、それがまるで、新しい文字のように見えた。
まだ発見されていない、まだ誰にも読めない字。
奇妙な黒丸の下敷きにされた、アップルパイの文字は、どこか神秘的で、そしてどこか不気味だった。
『どうかした?』
奇妙なアップルパイの文字を見つめて私が動かなかったせいか、私の目に飛び込んでくるちょうどいい位置に、チハヤは文字を走らせた。
チハヤの文字は、いつも少し斜めに歪んでいた。急いで書くせいだろう。
早く早く、とまるで子供のように、私に文字を綴ることを催促するのだ。
それでいて彼の文字はとても読みやすかった。読み取りやすいといったほうが近いのかもしれない。
目に飛び込んでくる文字の形が、ちょうどよい気持ちのよさを私に与えてくれるのだ。
彼の文字は、ただインクの塊から流れ出た線と線の結びつきを、
ただの紙の上の黒い線ではなく、上手くいえないが、音楽のような豊かさを持って私に伝えてくれるような気がした。
『なんでもないの。』
私は、彼に急かされるように、『どうかした?』の文字の隣に並べて綴った。
ちょっと歪んだ私の字が、彼の文字の隣に申し訳なくたたずんでいる。
『今日は、なんだか疲れた顔してるね。』
彼は、さらさらと万年筆の先から文字を生み出し終えると、私の顔を覗き込んできた。
くるりと、今にも摘み取れるようなつやつやとした葡萄を連想させる彼の瞳の中に、奇妙に歪んだ私の顔が映っていた。
その葡萄をつまんで、近づけて見たくなるほど、私の顔は滑稽に映っていた。
『そうかな。』
『そうだよ。』
かぶせるように、私の文字の上にチハヤは新しい文字を書いた。
彼の文字に圧倒されている間に、チハヤはすらすらと次の文字を生み出していく。
『今日はちょっと、おしゃべりしすぎちゃったみたいだね。』
『そんなことないから。もう少しだけ・・・ね?』
『だーめ。』
チハヤの強引な文字に負けまいと、新しい言葉を並べようとしたら、万年筆はきゅるりと何も書かずに紙の上を滑った。
『ほら、インクが切れた。もうおしまいのサインだよ。』
あ、と小さく口が開いた私の表情をみて、チハヤは楽しそうに微笑んだ。
私はなんだか悔しくて、書こうと思っていた場所を未練がましく指で辿ってみると、
さらりとした白い紙の上に、引っかいたキズ跡が糸ミミズのようにして残っていた。
『ずるい』と指を使って、紙の上に綴った。
きっと彼の万年筆の中にはまだ言葉の元がたっぷりと余っているのだ。
インクが出ない私の指から発せられた文字は、跡形もなく、それでいて不安定なものだった。
本当に、彼の目に映ったのかどうか不安になってしまう。
使い物にならなくなった万年筆を机の上に転がして、私はもう一度指で同じ文字を綴った。
チハヤは、ちょっと眉を動かすと、なんとでも言えばというように、机の上でばらばらになっている紙たちをすべて集めて、そろえ始めた。
つまり、私たちの会話はここまでということだ。私は慌ててチハヤの腕に手をかけた。
万年筆のインクも切れ、おまけに紙もないのでは、私たちの会話は成立しないからだ。
伸ばした右手の上に、チハヤは左手を乗せた。
彼の手元では、すでに今日の会話のすべてが綴られた紙たちが、綺麗にそろえられていた。
メモ用紙、画用紙、紙切れ、チラシの裏、さまざまな紙に、蟻のように無数の文字たちが行進していた。
私が文字に気を取られているうちに、チハヤは私の右手を絡めると、顔を覗き込んで小さく笑った。
悪戯はここまでだよ、と小さな子に諭すような表情だった。
私はなんだかむっとして、くしゃりと彼の髪の毛に手を差し入れた。
猫のような柔らかで明るいチハヤの髪の毛は、くしゃくしゃと手を動かすたびに、私の指の先にくるりと絡まったり、踊ったりした。
チハヤは何も言わず、私の好きなようにさせてくれた。
チハヤの髪の毛の柔らかさを存分に楽しんだ後、私は彼の瞳に手を伸ばした。
ぱちりと、瞼がふさがる。憎たらしいほど長い睫の先をちょんっとつついてみると、チハヤはぴくりと眉を動かした。
チハヤの頬に触れる。鼻に触れる。唇に触れる。
指の先で、指紋の中に彼の体温をしまいこみたくて、私はチハヤに触れていた。
そうすれば、言葉で交わし足りなかったことを、感じ取れるような気がしたからだ。
ぱっと、チハヤが瞼をあげた。
真っ直ぐに射られる。どうしようかと戸惑うようなまなざしだった。ぱちりと、電気が通ったような気分になる。
チハヤのまなざしに気をとられていると、いつのまにか、背中にチハヤの手が回っていた。
「アカリ。」
今日、初めて彼は私の前で声を出した。
彼の通る声は、空気にふれあい、私の耳に届くとき、鼓膜は心地よく震わせてくれた。
私はその瞬間を迎えることがとても好きだったし、同時に憎らしくもあった。
チハヤが私の前で声を出すのはこの瞬間だけだ。
幾枚にも重ねあげられた会話の紙よりも、この一言に胸がいっぱいになる。
たった三音の言葉が、私の耳から滑り込み、そして身体の中をいっぱいにする。そうしたら、もうなにも考えられなくなってしまう。
私を黙って彼を見つめることしか出来なくさせるのだ。
そして同時に、その声は私を恨めしい気分にさせた。
チハヤと額を寄せ合って、万年筆で会話を楽しむ時、私は自分が声を出せないことを忘れることができた。
もう何年も聞いていない自分の声が、どんな声だったのかと記憶を辿ったり、
切り取られた自分の声帯の居場所について、想像を繰り返すこともしなくてすんだ。
けれどチハヤが、そのよく通る声を空気に触れさせた瞬間、私はチハヤの声が羨ましくてしょうがなくなるのだ。
彼と同じように、声を出してみたい。
会話をしてみたい。
いつもは、奥のほうにしまいこんでいるどうしようもない思いが、胸に溢れかえってしまうのだ。
チハヤの、
頬の温かさ、感触、指先にかかる彼の髪の毛。
深い、瞳の色。長い睫。唇も眉毛も、鼻も瞼も。
そのすべてが彼のあの声を作っているのだ。
なにかがひとつでも欠けてはだめだった。
チハヤがチハヤであるからこそ、彼の声は私の鼓膜を心地よくさせてくれた。
チハヤ。
口を震わせて、私は懸命にチハヤという形を作った。
本当にこの形でいいのかと思うくらい、私は口で音の形を作るということをしていなかったから、
チハヤに伝わっているのかどうか不安でしょうがなかった。
ゆらゆらと漂う空気を掴んで、音を吹き込むように、私の声を空気の中に閉じこめておければよかったのだ。
そうすれば、文字に書かなくても、私の思いは通じたのに。
これが私の気持ちだよって、チハヤの前で開いて聞かせてあげれたのに。
チハヤは、うん?と小さく喉から声を出し、私に顔を近づけてきた。
やはり伝わらなかったのだという残念さよりも、彼が声をださない私の口に興味を示してくれたことが嬉しかった。
彼の瞳が興味気にこちらを覗いていることを確認してから、私はチハヤの手をとった。
チハヤの手は、筋ばっていて、固かった。
私は彼が、大きなフライパンを片手に色とりどりの野菜たちを炒めたり、
長くどっしりとした鍋の中で、とろとろのスープを掻き混ぜている姿を想像しながら、彼の手をさらりと撫でた。
この会話を思いついたのは彼だった。
私が紙の上に言葉を書いたすぐ横に、彼はさらりとその返し言葉を書いてくれたのだ。
たいていの人は、私が文字を書いた紙を見て、自分の声でこたえていたので、こんな風に同じ紙に書いてくれたのはチハヤだけだった。
チハヤの言葉は、斜めで走るような勢いがあり、初めて見たときは言葉に飲み込まれてしまいそうだった。
それからこの二人だけの会話が始まったのだ。
会話で用いられた紙はすべて大切にしまっている。
ケンカをして、ばらばらになってしまったメモ用紙も、
誤って紅茶をこぼしてしまって、どんな会話をしたか分からなくなってしまった紙ナプキンも。
一枚、また一枚と会話の用紙が増えていく度に、私のチハヤへの思いも大きくなっていくような気がした。
私はチハヤに声を出してほしかった。
彼の声を聞けばたちまち羨ましくて、彼の喉に手を伸ばしてしまいそうになるけれど、
チハヤがこうして私といる時間の中で声を出す瞬間が、一度か二度と数えるほどしかないと、
チハヤの声がやがて消えてしまうのではないかと思うのだ。
私は、彼の手のひらの上に指の腹を押し付けて、たわいのない質問をさらさらと書いた。
机の上にはもう紙は一枚も置いていないし、万年筆には蓋がしてあった。
「どうしたんだい、今日は?」
チハヤは私の顔を覗き込みながら、口を開いた。通る声が、私の鼓膜に響く。
どんな素敵な音楽よりも、それはとても心地が良かった。
『こえがききたかったの』
私は彼の手のひらにゆるゆると文字を綴った。
くすぐったそうに彼が肩を震わせた。
「アカリといるときに、声を出すのは不安になるんだ。」
『どうして?』
「きみに声が戻ってしまいそうで、怖くなる。」
え・・。っと声が出ない私の口が驚いて開いた。
チハヤの瞳は相変わらず綺麗なままで、なにも変わっていなかった。
「ずっとこのままがいい。
なのに、僕の声をアカリが吸収して、今にも声を出してしまうんじゃないかと、怖くなるんだ。」
チハヤが、私の首に手を伸ばしてきた。
さらりと喉を撫でられる。背中に小さな電流が走って、動けなくなった。
「だからもし、アカリに声が戻っても、僕が吸い取ってあげるよ。」
チハヤは、ね?っと小首を傾げて私を覗き込んだ。
私はただ黙ってチハヤを見つめ直すことしか出来なかった。
私は、どんな反応をすればいいのか分からなかった。
それと同時に、ひどく心地よい気分が胸の中から生まれてきていた。
彼の願うことがそれならば、私はずっとなにも話さない私のままでいよう。
そう思える自分がいることに私は気づいて、ただびっくりした。
今まで思っていた、声を取り戻したいという気持ちがしゅるしゅると胸の中で萎んでいく音が、耳の内側から聞こえ始めた。
しゅる、しゅる、しゅる。
自分でも、どうしてこんな気持ちになるのか分からなかった。
ただ私は、声と引き換えにチハヤを失ってしまうことが恐ろしかったのだ。
それとも、彼の声を二人で共有することができたなら、私とチハヤの願いを両方叶えられるのではないだろうか。
彼の喉に触れて、私の手の中に彼の声が流れ込んでくる。二人で、チハヤの、チハヤだけの声だったモノを共有する。
そんなことができるような気がした。
けれど私がそれを試す前に、チハヤにぎゅっと抱きしめられて、キスをされた。
チハヤの腕の中に閉じ込められている間に、私の最後の声への切望が、しゅるりと消えてしまう音が耳に響いた。
きゅっと目を閉じる。
痛みともつかない空虚感が、胸の中で漂っていた。
同時に、胸が少し軽くなったような気がした。
その隙間を埋めるように、チハヤがただただぎゅうっと私を抱きしめて、キスをしてくれた。
私が思い描いていた声の軌跡を、拭い消してくれるように、チハヤはただ私達の開いた空間を埋めてくれた。
それは、どんな素晴らしい声を私の喉から発することよりも、素晴らしいことに思えた。
けれどもそれと同時に、チハヤは私から声を発するという切望さえ消してしまったのだ。
それは、インクの出なくなった万年筆を机の上に放り出して、会話を中断させてしまったのと同じくらいあっけなかった。
心がさわさわと揺れていた。
声という、言葉がひどく遠くにあるように感じられた。
私の中に残ったのは、ただチハヤの声を求める欲求だけだった。
だからせめて、ベッドに行くよりも前に、もう一度その声を出してくれないだろうかと思いながら、
私はもう一度、チハヤに向かって手を伸ばした。
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